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◯拷問投票222【第三章 〜正義と正義〜】

 拷問投票に向けての最後の障害として残されているのは、あとひとつだった。なによりも障害という言葉がふさわしい威風堂々さで待ち構えている。
「……あとは」
『米がやたら重たい』
「そうです。米の国が」
 長瀬たちに残された最後の問題は、アメリカだった。相変わらず、坂越被告人を日本から奪い取ろうとしている。太平洋の向こうから継続的に圧力がかかっているらしいが、日本政府はいまだ判断を留保している。国益上は被告人を引き渡すしかない。政府は世論の強い睨みに怯えているのだった。
 川島は、意外にも、楽観的な声を出した。
『実は、政府高官とつながりがありますから、どうにか、できるか、と。我々の論理はアメリカにとってもイギリスにとっても、悪いもんじゃない』
「だったらいいんですが」
 ぽろりとこぼれた長瀬の不安を否定するように、川島は声量を上げた。
『ご安心ください、なんて言ったら、胡散くさいでしょうがね。今回の事件で拷問が発動されれば、拷問に反対しているイギリスも、イギリスとの関係を保ちたいアメリカも、かなり現実的な意味で得することができます。我々の論理は強い』
「そうであることを願います。というか、願うしかないといいますか」
 長瀬には確信がなかった。『我々の論理』というのは、もちろん、拷問を実施することによって制度を廃止へと向かわせる、という論理だ。その論理が果たして現実的に作用するのだろうか。わからない。
 ともかく、自らの名誉と信頼を失い、平和刑法の会の代表からおろされ、そこまでしてでも拷問投票制度を廃止しようとしている川島の発言力は、そのような川島の実態を相手に伝えさえすれば、なお十分に高い。むしろ命がけに匹敵する説得力だと言えなくもない。少なくとも、それほど有名なわけでもない地味な刑事法学者が貧弱な人脈で法務省に働きかけるよりも、明らかに早くて確実だった。
 長瀬は、その件はお願いします、頼りにしてます、と何度も繰り返し、それから電話を切った。
「うまくいきそう?」
 顔を上げると、そこに谷川がいた。谷川の隣には、じっと視線を向けてくる高橋実の姿があった。静かなリビングに、ふたりの視線が騒がしい。長瀬は、ふたりにむけて説明するために敬語を選んだ。
「なんとかいきそうです。あの川島さんですから」
「けれど」
 谷川は、頬を膨らませて、天井を見上げた。ぷふっと口内の息を飛ばしてから、部屋にまき散らすように疑問を述べる。
「アメリカを納得させる、なんていう壮大なことが、あのオールバックじいさんにできるのか? 僕には信じがたいけどね」