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【道徳二元論⑥】〇基礎理論〇 正義の行使

 こんにちは、山本清流です。


 『道徳二元論』の第6回目の講義です。基礎理論の最後です。

 今回は、「正義の行使」というテーマでお話ししたいと思います。


 要約は以下のとおり。

 道徳を相手に向かって発動すること、主張することを、正義の行使と呼ぶことにする。人間は、正義を行使するために、逆算して戦略を立てている。将来のある時点において正義を行使するために、あえてその時点では合理的ではない選択をおこない、全体の満足度を上昇させようと考える。戦略の失敗から脱するには、将来への約束があるか。

 以下、解説していきます。

 ぜひ、お付き合いください。


 【正義の行使】

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 人間は、正義を行使するために、戦略を立てています。

 その戦略は、自分の満足度を最大化させる(少なくとも、本人はそう考えている)戦略です。


 【正義とはなにか】

 道徳を主張し、その効力を発揮することを、正義の行使と呼ぶことにします。

 正義は他人に対して、作為、あるいは、不作為を要求します。


 闘争的道徳の場合、作為を要求しますし、

 公平的道徳の場合、不作為を要求します。


 【たとえば】

 またもや、リンゴの例に戻りましょう。


 Aさんがリンゴの木を見つけたとき、その木にはすでに人々が群がっていました。

 そこで、Aさんは、それまでの長年の戦略によって効力を得た公平的道徳を主張します。


「不公平だ。僕は、いままでリンゴをたくさん得たとき、周りの人たちに譲ってきた。あなたたちも譲るべきでしょう」と。

 リンゴを手にする人々に対して、そのリンゴを食べること(満足度を上昇させること)への不作為を要求しています。


 これが、正義の行使です。


 自分のいままでの経験(一貫性)を根拠にして、

 自分の満足度を上昇させるための道徳を主張します。


 【まさに、それが目的】

 正義の行使によって得られる満足度が目的です。

 あらゆる主体は、戦略を立てる段階で、正義の行使で得られる満足度と、その戦略を取ることによって減少する満足度を比較考量します。


 正義の行使によって満足度を最大化できると考えるからこそ、戦略プロセスにおける損失を見逃します。


 【道徳の準備とはなにか】

 いつか正義を行使するために一貫的な行動を取ることを、道徳の準備と呼びましょう。

 道徳の準備の中では、満足度の低下を見逃します。


 そこで失われる満足度と、いつか正義を行使したときに得られるはずの満足度の比較考量をして、

 「自分は得をする」という考えがあるからこそ、満足度の低下を見逃します。


 裏を返せば、この比較考量にミスがあれば、戦略の失敗が生じます。


 以上。道徳二元論の基礎となるアイディアはこれで終わりです。

 最後に、軽く、戦略の失敗からの離脱方法を考えてみましょう。


 【戦略の失敗からの離脱方法】

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 戦略の失敗から脱するには、偽善的な行動が避けられません。

 満足度をより上昇させるには、戦略を変更するしかないわけですが、


 戦略を変更することは、「いままでの主張と違うことを主張すること」であり、

 いままでとの一貫性が消滅します。


 つまり、戦略の変更に際しては、確実に、誰もが「偽善的な行動」を取らざるを得ません。

 ここで言う「偽善的な行動」とは、一貫性がない行動のことです。


 【ケーススタディー:未来への約束】

 リンゴの例に戻りましょう。

 Aさんがリンゴの木を見つけましたが、すでに占有されていました。


 しかし、Aさんはいままで闘争的道徳の戦略を取ってきていたため、

 「リンゴをくれ」と要求することができません。


 目の前にはリンゴが山のようにあり、

 戦略の失敗が生じていることをAさんは自覚しました。


 そのとき、きっと、Aさんはこう言うでしょう。

「これからは僕もリンゴを譲るようにしよう。だから、いま、僕にも分けてくれ」


 これが、偽善的な行動です。

 

 将来の一貫性を根拠にして、現在はないはずの正義に効力を持たせようとします。

 これがおそらく、戦略の失敗の解決策です。


 【現実の世界はどうか】

 もしかしたら気づいたかもしれませんが、

 理論上、人それぞれ、別々の道徳を保有するのが合理的です。


 それぞれの特性に合わせてカスタマイズした道徳体系が、その人の満足度を最大化するからです。

 道徳は多様であるはずでした。


 しかし、実際には、社会に共通した道徳が共有されています。

 ここにディレンマがあるのです。


 道徳はそれぞれ違ったほうが合理的ですが、

 違う道徳同士がぶつかったときに解決しないのです。


 「リンゴをくれ」と主張する人と、「リンゴはあげない」と主張する人がそれぞれの道徳を武器に戦ったら、いつまでも解決しません。


 そこで、道徳はある程度、共有されていなければいけない。

 そうして、現在の社会が成り立っているのです、おそらく……。


 すると、どうなるか。


 理論上は、「戦略の失敗に苦しんでいる主体」が無数に存在することになります。

 だって、戦略がもともと社会で決められてしまっているのだから。


 社会が提供する道徳戦略が、特定の人にはミスマッチなわけですね。


 【道徳には本来、多様性がある】

 道徳の多様性が理論上は確認できたということで、

 『道徳二元論』を終えたいと思います。お疲れさまでした。


 もちろん、ただの趣味的な思索なので、

 あまり鵜呑みにされても困りますが、


 なにかアイディアを提供できていれば幸いです。


 理論上、道徳が多様であるとすれば、

「どんなに道徳的な発言も、必ず誰かを傷つけている」と言えるのではないでしょうか。