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◯拷問投票248【第四章 〜反対と賛成〜】

 裁判員たちの情報をざっと見たところ、長瀬のいる地点からいちばん近いところに住んでいるのは佐藤龍という若い男の裁判員だった。まだ二十代で、人生に目標のないフリーター。訳ありの彼女と同棲中。真面目な性格。誰が付け加えた指摘か知らないが、『買収に乗らない可能性が高い』と記されている。
 彼の自宅の最寄りの駅の情報を調べると、その駅の東京地裁方面に向かう電車は六時過ぎからすでに動いていなかった。
 長瀬は、瞬時の判断で、そこにタクシーを進めることを決めた。
 到着すると、駅前のバスターミナルは駅から出てきた人であふれていた。長瀬は、人込みの中を探しまわった。
 判決公判のときに傍聴していたので、佐藤龍の顔は見たことがある。川島からもらった顔写真を見て、より鮮明に思い出していた。
 タクシーを待つ人の列の中に佐藤龍に似た顔の男を見つけたときは、まだ確信が持てなかった。目の前でじっくりと見て、判決公判のときに緊張の顔を浮かべていた佐藤龍と同一人物であることを確信した。
 こうして、足止めを食らっていた裁判員をひとり拾うことができた。
 現在の長瀬には、残されている時間からして、佐藤龍以外の裁判員を迎えに行く余裕はなかった。
 スマホを見れば、グループチャットで、谷川から『ひとり裁判員を捕まえた』という報告があった。電車の運行停止で足止めを食らっていた裁判員がほかにもいたらしい。そのほか四人の裁判員がいるが、大丈夫だろうか。反対票が確定してしまう不安を拭えないまま、タクシーは進む。
 出発してから、車内には言葉がひとつも落とされていない。
 じろじろ見るのはよくないだろうと思い、長瀬は、ちらりと助手席に目を走らせた。猫背の佐藤は、ぼんやりとフロントガラスのむこうを見据えていた。なにか考え事をしているようだ。それもかなり、シリアスな類いのものだろう。
 裁判員とふたりきりになるという贅沢な機会なので、できれば賛成票を投じるように説得したいところだった。
 いつにも増して長瀬は慎重になっている。とある知り合いの話だとぼかしながら高橋実の実話をしてみたいが、ブレーキがかかる。裁判員に請託したということになれば、のちのち問題になる。
 細かい表情について丁寧に観察することはできないまま、目を戻した。視界の隅でぼやけてしまった佐藤に、いま見たばかりの残像を重ねた。
 川島の情報のとおりに真面目な性格であるなら、こんなにもわかりやすい判断にも悩んだりするタイプかもしれない。それで、どうも気が向かない様子なのだろうか。賛成票を入れてくれるのかどうか、わからない。まだ、どちらにするか決めていないということもあるのだろうか。