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◯拷問投票287【第四章 〜反対と賛成〜】

 薄い緑色のカーテンを背に映っている男の顔を見て、長瀬は驚いた。昨日の朝、タクシーで送り届けてやった裁判員――佐藤龍である。タクシーの中では優柔不断な印象を受けたが、人が変わったように決意に満ちた顔をしている。
 ディスプレイの中の佐藤龍は、ゆっくりと重々しく言葉を並べていった。
『俺は反対票を投じました。正直なところ、そうすれば後悔しないで済むだろうという臆病な気持ちもありました。しかし、投票の夜が明け、いま、俺は反対するということの重さを感じています。拷問に反対するというのも一種の正義であり、そして、その正義は人を傷つけます。人を傷つけない正義はありませんが、もしも誰かが傷つかなければいけないのであれば、当然に傷つくべき人間が傷つくしかないだろう、と思い至りました。俺のこの考えを受けたうえで、国民のみなさまに、いまいちど判断してほしいのです』
 いいことを言うじゃないか、と長瀬は興奮した。
 いままでの人類の歴史の中で、不幸にも明らかになってしまった事実がひとつある。それは、すべての人間が幸せに生きる社会など存在しない、というダイヤモンドのように硬い真実だ。誰かが犠牲にならなければいけない。誰かが苦しまなければいけない。もちろん、その誰かは、救いを求める。選挙に出たり、司法に訴えたり、社会で決まったルールにしたがって、わたしを助けてくれ、と叫ぶ。その声について、社会はジャッジする。よし、助けてやろう、となるときもあれば、社会のためには仕方のない犠牲だ、と突き放されることもある。
 それが社会だ。
 キレイゴトの通用しない現実だ。
 すべてのキレイゴトは併存できない。
 いま被告人は助けを求めている。拷問をしないでくれ、俺という存在を社会の犠牲にしないでくれ、と。同時に、高橋実は叫んでいる。娘を殺したあの異常者を地獄に落とせ、口を塞ぎ、窒息したまま生かせ、と。どっちかが犠牲にならなければいけない。どちらも得する選択肢など、存在しない。
――犠牲になるべきは、どっちだ?
 こんなにもわかりやすい投票の基準を提示してくれたことに、長瀬は、並々ならぬ感謝の気持ちを抱いていた。
 おかげで難しさは消えた。
 犯罪抑止とか、国家の倫理とか、大事なのは、そこじゃない。
 どっちを殺し、どっちを生かすか。それだけだ。それ以外にはない。最後に残された単純な二択だった。
 長瀬は、スマホを手に取り、SNSを開いた。案の定、佐藤龍の投稿が見たこともないほど拡散されている。『再投票』がトレンドにもなっている。
『佐藤氏の勇気を称えたい。知識人に騙されるな』
『苦しむべき人間が苦しむだけだ。罪の意識など、抱く必要もない』
『遺族が反対してないのが、すべてを物語ってる』
『まだ〈拷問はよくない〉とかほざいてるヤツ、マジで無能すぎる』
 同じ方向へと突き進む投稿が相次いでおり、異常な盛り上がりだった。まるで全国に散らばっている暴動がSNS上に移行してきて、融合しているかのようだった。とんでもない権力を手にして、それこそリヴァイアサンのように、もはや誰も抵抗できない生き物となって動いている。
 長瀬は、恐怖から完全に解放されていた。自分はただ全体の一部として存在しているだけであり、全体の一部であるからには間違っているということはありえない。先へと続く道には障害物がなにもない。
 長瀬は、スマホを操作し、佐藤龍の用意した投票ページを開いた。すでに投票は始まっており、投票経過は伏せられている。法学者という身分の長瀬には拷問投票での投票権がなかったぶん、投票への欲は高まっている。
 なにを迷う必要があるだろうか。長瀬は、『賛成』という選択肢をタップした。