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◯拷問投票290【第四章 〜反対と賛成〜】

 道を抜けると、視界がひろがった。小山の斜面に無数の墓石が並んでいる。強い日差しを跳ね返し、光が飛散していた。そこから見下ろしたところには、喜怒哀楽を知り尽くしたような平凡な街があった。
 長瀬も、高橋実も、目的地に着くまで足を止めなかった。かつて固い握手を交わした墓石の前まで来て、どうしてか胸の詰まるような気持ちが込み上げてくるのを感じながら、足を止める。
「先生とここにやってきたときのこと、鮮明に憶えています」
 高橋実は、静かに佇んでいる墓石を見つめ、語りだした。
「先生は冷静で聡明な学者です。先生の理論によれば、刑罰は犯罪抑止のために合理的に機能しない限り無意味であり、その観点から常に肯定されなければいけません。まさに合理的な人間観です」
 なにを言おうとしているのか、もちろん、わかっている。長瀬は、墓石となってしまったものを見つめたまま、耳を傾けていた。
「でも、人間は計算機じゃない。心があります。今回の拷問は理論的に合理的なものではなく、強い衝撃を与える怒りの表出。これが国民の意識を高め、犯罪を抑止するための原動力になると思っていました。が……」
 思いもよらない続きがあったようだ。
「違いましたか?」
「心が残っているなら、人なんか、殺せません」
 長瀬の視線を、高橋実は横顔で受け止めている。
「犯人には心がなくなってしまっていた。なぜかは知りませんが。そして、わたしも、犯人を苦しめ、殺そうとしている。わたしにも心がなくなってしまった。人が人を殺そうとするとき、心があるわけがないのです。ずっと、どこかで、自分に嘘を吐いていることを自覚していました」
 同感だった。はじめのうちは高橋実の唱えた理屈を意識していたが、活動を通して露骨に本心が露わになっていった。
 本当はただ復讐をしたかっただけである。
そのことに、高橋実も、気づいていたようだった。
 無事に復讐が成功することになり、どんな気持ちなのだろうか。長瀬は、聞くこともできず、また墓石のほうを向いた。高橋美紀の名が刻まれている。生きていたら、なにをしていただろうか。どんな人生が続いていただろうか。
思いを馳せているうちに、時間は過ぎていった。
 突然、ズボンのポッケに入れていたスマホが震えた。手に取ると、正午になったことを知らせている。入ったばかりの通知には、『坂越被告人への積極的刑罰措置を開始したことを、法務大臣が発表。史上初』とあった。
 感極まるものがあったが、長瀬はなにも言えなかった。
 高橋実は、墓石に手を伸ばし、側面に優しく触れた。まるで、娘の肩にそっと手を添えたようだった。
 それから屈みこむと、胸ポケットに右手を差し込んだ。そこからきらりと光るものを取り出し、墓前に置いた。
「なんですか、それは?」
 聞くと、数秒間、無言が続いた。抵抗や批判、苛立ちなどを読み取ることはできない。目の前に屈みこんでいる背中は、恐ろしいほど小さく見えた。
「平和への祈りです」
 高橋実は、小さな声で応じて、手を合わせた。
 そこには、遺物のように、十字架のネックレスが供えられていた。


    完