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◯拷問投票221【第三章 〜正義と正義〜】

 幸いにもと言うべきか、国民に深く遵法精神が行きわたっている。
 元を辿れば、拷問投票法第四九条や同法第四九の二条を生み出したのも、国会だ。皮肉にも、拷問投票の反対派たちがぞんぶんに嫌っている国会という国家権力に対して、彼らが平和的に服従したがゆえに、日本国内の秩序は大きく乱されないのだった。
 一連の騒動の中で注目の的となっていた川島は、裁判員に対する請託の罪で送検されていたが、意外にも起訴猶予処分となった。
 法定刑上は、長ければ二年の拘禁刑になることもある。司法への信頼を揺るがしたことを考えれば、罪としては重く、寛大な対応をすべき事件でもないだろう。なんらかの忖度が働いたのだろうか。あるいは、川島がなんらかの策を講じたのか。それとも、神が味方しただけなのか。わからない。
 まだ投票当日まで、十日ほど残されている。
 夏の日差しが衰えない平日の午後、長瀬は、冷房の効いた自宅リビングから、川島のスマホへと電話をかけた。
『すべてが順調なようです』
 開口一番で川島は言った。朗らかな声だ。
『まだ安心することはできないが、世の流れは変わってきている。自分で言うのもなんだが、平和刑法の会は反対派の大きな支柱でしたから。それがなくなった現在、反対派は勢いが保てないのでしょう、はははっ』
 大袈裟な笑い方だった。すっかり元通りのエネルギッシュなオーラを取り戻していることが電話越しにも伝わってくる。いや、あるいは、長瀬が目にしてきた川島の暗さはどれも演技だったのかもしれない。器用な男だから。いまとなっては、本音を見極めようとするモチベーションはなくなっていた。どちらでもいい。
「本当に川島さんの言ってたとおりになったので、正直、驚いていますよ。平和刑法の会が沈むとは」
 いちおう、お世辞を言った。
『やめてください。よだれの出てくる言葉なんかね。代表に裏切られたんじゃ、そりゃ、どうしようもない』
「そうかもしれません。すっかり撃沈です」
 正確には、平和刑法の会は、いまだに存在している。川島に代わって内藤が代表の座に就いた。ただ活動を停止されているだけである。
 それも、長瀬にとっては、どうでもいいことだった。活動が停止されていれば、なんの脅威でもない。投票の期日を過ぎればまた活動はできるが、平和刑法の会の最終的な目標――制度の廃止――は川島の目的と完全に一致している。長瀬たちも制度の廃止に反対する気はない。すでに敵と呼びうるものではなくなっていた。
 もちろん、正しく言い換えるなら、敵と呼びうるものではない状態へと変質させた、ということになる。
 世間的には、川島が自らのスキャンダルで平和刑法の会とともに社会的に死んだと思われているが、実際は、すべて川島の計画である。自ら記録した音声データと動画を流出させ、平和刑法の会を組織的な犯罪集団として宣伝し、拷問投票法を利用して活動を全面的に停止させた。数日前の民間企業による世論調査で拷問への賛成派が反対派を追い抜いたことまで含めて、川島が見据えていた未来だった。
 流れは完全に、被告人に不利になっている。どんどん、被告人の肌へ、地獄のような苦痛を含んだ鋭い注射針が近づいていく。