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○拷問投票15【第一章 〜毒蛇の契約〜】

 目の前のデモ参加者たちは、国家や政府に対して憤りを訴えているようだ。彼らは間違いなく、その国家や政府という存在を、目の前の国会議事堂に投影している。より若い世代の佐藤には、その考え方がよくわからない。
 いろんなものがバーチャル上に移行していく現代社会においては、さまざまな概念を物理的存在などに結び付けて理解することが困難になった。その代わり、どの概念も本質の領域で理解することが容易になった。佐藤とて、明確に理解しているわけではない。少なくとも、国家という存在を、現実に存在している建物や組織と結び付けて考えるのはさすがに幼稚ではないか、とは感じている。
 極度に抽象的に考えるならば、投票権を保有している時点で、佐藤も国家を構成している一員である。
 たしかに佐藤は、直近の国会議員の選挙で、拷問投票制度を支持していた現職の議員に投票した。その意味では、とくに立場を明確にしていない佐藤も、間接的には拷問投票に賛意を示したことになるのかもしれない。
 国家というのは俺であり、俺の集合であり、それでいて、それ以上のもの。そういう意味での国家という存在が、現在、一部の人間に対して苦痛を与えることを目的とした刑罰を発動することができるという状態にある。これについて、デモに参加している人たちは強い憤りを表明している。
 果たして、国家に対してこのような権限が与えられていることは許容されるべきなのだろうか。
 積極的刑罰措置という国家による暴力は、そんなにいけないことなのだろうか?
 どうなんだろう。ただのフリーターに過ぎない佐藤にとっては難しい問題だ。簡単には自分の立場を選べない。
 かりに相手が強く憎しみを抱く人物であった場合で、その相手に苦痛を与えるために合法的に暴力を行使する権利があったとしても、それを行使するかどうかの選択を迫られたら、その選択を辞退したい。  実際のところ、佐藤は、いままで拷問投票制度における投票はすべて辞退している。この客観的な事実に頼るならば、佐藤はどちらかといえば積極的刑罰措置に反対している側なのかもしれない。
 佐藤の両親は、より極端に、すべての投票で反対票を投じている。彼らは平和刑法の会の活動に賛同している。拷問投票制度に反対するばかりか、長年に渡って維持されてきた死刑制度さえも時代に合っていないとして廃止を訴えている。
 死刑なんて言い出せば、それこそ国家による究極的な暴力だ。
 この究極的な暴力が許容されているとするならば、死刑との対比において積極的刑罰措置に対して評価を加えることは簡単である。
 佐藤は、単純に思った。制度上は、たしかに積極的刑罰措置のほうが極刑として位置付けられている、と言える。それは死刑判決が決まった場合、その判決の内部に潜在的に存在している積極的刑罰措置の可能性を、無投票付き死刑の選択によって排除できるという仕組みに注目すれば正しい。しかしながら、それは厳密には、「死刑」と「積極的刑罰措置」という対立ではなく、「死刑」と「死刑及び積極的刑罰措置」の対立として捉えることができる。その観点からは、必ずしも積極的刑罰措置が死刑よりも重い刑罰であると捉えることはできない。そもそも付加刑として導入されたのだから、死刑より軽い刑罰だとも言える。絞首による死刑が許容されるならば、それより重くはないだろう積極的刑罰措置がことさら時代に逆行する刑罰とも言えないのではないか。
 国家による暴力はもともと伝統的に存在していたのであり、その種類が増えただけなのではないだろうか。
 佐藤は、その点、デモ隊たちに質問してみたくなった。もちろん、実際に質問する気はない。回答は目に見えている。死刑自体が許容されるべきではない、と主張するに決まっている。佐藤の両親と同じ言い分だ。
 佐藤は、考えるのに少し疲れて、投げやりな気持ちになった。もしも裁判員に対して巨額の支給がなければ、裁判員なんて、いますぐに辞退したところなのに。溜息を吐きたくなるのを、スティックパンを口の中に押し込んで防ぐ。
 気が付けば、スティックパンが六本も入っていたはずの袋の中は空になっている。