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◯拷問投票281【第四章 〜反対と賛成〜】

「なにか?」
 無言に耐えられなくなって、佐藤は、白々しく言った。すると、彼女は、目を丸くしたまま顔を突き出すようにしてから、ほっとするように「やっぱり」と言った。わたしはあなたのことを知っていますよ、というジェスチャーにほかならない。
「あのときの人ですよね?」
 あまりにも単刀直入すぎて、すぐには反応できなかった。『あのとき』というのは、工場地帯での一件を指しているに違いない。つまり、レイプだ。彼女の顔にはレイプという言葉のまとった深刻さがない。気まずくなるとばかり思っていた。なにやら雰囲気が違う。とりあえず合わせた。
「ああ、あのときの?」
「ですよね、やっぱり、あのとき助けてくれた人。わたし、リコって言うんです。おひさしぶりです」
 きらりとした笑顔で立ち上がった。それと同時に押しつけるように差し出された理子の右手を、佐藤は慎重に握りかえした。
 さすがに笑顔にまで合わせることはできなかった。
 もっと深刻なものなんじゃないか、と佐藤は疑問に感じていた。もっと繊細で、もっと触れづらいものなのではないのか。実のところ、そうでもないのか? 過度にネガティブに捉えすぎていただけなのか。
 佐藤の疑問を感じ取ったかのように、理子は、急に語りだした。
「バランスがとれたんです。悪い男もいれば、優しい男もいるんだな、って。あのときは一色に染まっちゃいそうだったから、ホント、助かりました。いつか感謝したいと思っていました。ホントに優しいですよね」
 優しいわけがないだろ、とは思ったが、そういうことになってくると、もちろん、佐藤としても、まんざらでもない。
 妄想ではなく、現実に女神と向き合えるなど、とんだ贅沢だった。
 佐藤は、理子と並んで、冷えた椅子に座った。激しい雨音の続くプラットホームで、お互いの共通項を探す作業が始まった。いちばん最初に見つかったのは、フリーターという肩書きだった。
 安い時給でコツコツ老後資金を稼ぐだけの佐藤には、人生を通して成し遂げたいことがない。望んでいるわけでもないが、自ら進んでフリーターをしている。それに対して、理子は、仕方なくフリーターをしているらしかった。キャリアウーマンに憧れていたが、『いろいろあって』、男性社会に挑んでいくのは諦めたのだという。まったく背景が違うが、理子は線引きをするようなことはなかった。
「真面目ですね。老後のこと、しっかり考えてるなんて」
「いえ、そんな……」
 謙遜しそうになったが、その瞬間、心の中で反発が起こった。謙虚な人を演じることに背徳感を覚えたせいかもしれない。佐藤は、あえて、一般的な受け答えの方法に従うことを拒んだ。
「まあ、たしかに俺、真面目かもしれないです。ちょっと前だって、真面目に夢を見すぎてて、寝坊して、バイトに遅刻しましたから」
 理子は、笑いを堪えるように頬を持ち上げた。
「それって、真面目なんですか?」
「ぜんぜん違いますよね」
 ついに佐藤は笑った。つられて、理子も笑いだした。飾らない派手な笑い方が親しみやすかった。
 もしかして気が合うのかもしれない。ドラマにしかないような展開だ。佐藤はふわふわと宙に浮いているような気持ちだった。