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◯拷問投票286【第四章 〜反対と賛成〜】

 


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 拷問の発動条件が揃わなかったことがわかった昨晩から、長瀬は、高橋実と一言も話していなかった。電話をかけることができない。
 きっと、高橋実は、納得していないだろう。もともと拷問などを正当化するような野蛮な人間ではないだろうが、制度として正式に存在しているのならば当然に発動されるべきだろうと考えていた。もしも発動されないなら、拷問には値しないような事案だというレッテルを張られてしまったような気がするだろう。それこそ拷問だ。これだけ理不尽に殺されていながら、高橋美紀はまた殺されたのだ。しかも、犯人は、悔やまず、謝罪もなく、のうのうと生きている。許せるわけがない。殺したって、殺したりないだろう。長瀬にだって、わかる。
 なんと言葉をかけたらいいのか、それだけ、わからない。
 ひどく無能になったような気がして受け入れられず、一生懸命に頭を回してみるが、やはり、わからない。ぜんぜん、わからない。
 なんと言えばいい? どんなに慎重に言葉を選んだとしても、高橋実の心を抉りそうな気さえしてくる。
 一睡もできないまま、長瀬は、夜を通して、なにかへの怒りと自分への怒りを同時に育てていた。しかるべき報いを。その契約を破った自分は許せないし、臆病な裁判員も、悠長なコメンテーターも、国家そのものさえ、許せない。自分の心がどこまでも独善的に膨張していくような、それはもう不愉快な感覚にもてあそばれている。
 朝食をつくる気になれないどころか、食欲そのものも込み上げてこない。起きてから口にしたのは、グラス一杯の水道水だけだ。それで十分だった。
 外からは、日常のループを印象付けるかのように、グア、グア、とカラスの鳴き声が無神経に響いている。
 長瀬は、リビングのテーブルに置きっぱなしになっていたノートパソコンを開いた。お気に入りのニュース番組を見るためだ。
 今日は、拷問投票法第六七条に従い、国民による投票によって導かれた賛成票を国会が承認する日である。現在、衆参両院ともねじれていないので、賛成票が承認されることは確実だ。
 それに関するニュースと、国内で多発している暴動に関するニュースとかが、流れているのだろう。
 暴動については、長瀬は、どうでもいいと思っている。どうせ平和な国だ。すぐに鎮まるだろう。本当なら、被害者遺族とかが率先して、亡き彼女もこんなことは望んでいない、とコメントを出すべきところだが、高橋実がそんな無意味で嘘にまみれたコメントを出すわけがない。あれだけ残虐に殺されたのに、犯人は苦しみもせずに生きているのだ。どう考えてもおかしいだろう。
 長瀬が短絡的な苛立ちを強めているうちに、ノートパソコンのディスプレイにお目当てのニュース番組が出てきた。
 取り上げられていたのは、長瀬が想像していたような類のニュースではない。あまりにも意外だ。
 一瞬のうちに、ぐんと胸が高鳴るのを感じた。これは、まさに奇跡と言ってもいいかもしれない。
 よく通る声で、力強く、女性アナウンサーが読み上げている。
『今朝、ネット上に裁判員を名乗る人物が顔出しの動画を公開し、〈自分は反対票を投じたが、まだ再投票の権利がある。いまから国民による再投票を実施する。もしも、この投票によって国民がふたたび積極的刑罰措置を支持したのならば、自分はそれを参考にし、再投票に行く用意がある〉と述べ、SNS上で積極的刑罰措置の実施の賛否を問う投票が開始されました。すでに投票の当日を過ぎているため、裁判員による政治活動及び投票活動は制限されていません。もしも裁判員のひとりが賛成票へ再投票すれば、積極的刑罰措置の発動条件が揃うことになります』
 的確に短くまとめられた文章が読み上げられたあと、その問題の動画が編集なしでそのまま流れだした。