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○拷問投票45【第一章 〜毒蛇の契約〜】

「あ、ありがとう……ございます」
 細々とした声が聞こえてきた。その声があまりに弱弱しかったので、思わず、「大丈夫ですか?」と質問していた。相手の反応が返ってくる前に、その質問があまりに無意味すぎたことに自ら気が付いた。
「ああ、ごめんなさい。どうしよう、俺は……」
 このまま去るわけにはいかないし、かといって、どう接すればいいか、マニュアルがあるわけでもない。
 法的な義務としては、警察に通報するべきなのだろう。
 不同意性交等罪は親告罪ではないので、事件が発生した以上は、国家権力が介入しなければならない。下劣な犯罪行為に及ぶというのは国家に対する挑戦であり、被害者個人のみの問題ではないのだから。
 運のいいことに、この工場地帯は監視カメラが多い。警察が捜査に踏み出せば、すぐに犯人を見つけることができるだろう。その犯人を有罪にするのに十分なほどの証拠を、検察官の手元に届けることもできるだろう。
 佐藤が躊躇しているのは、そのような法的義務に従うことが完全無欠に正しいことだとは思えないからだった。
 大きな倉庫の角を挟んで、お互いにお互いの姿を見れないまま、少しばかり無言の時間が続いた。
 ふう、と息を吐く音が聞こえてきた。喉が若い。おそらく同年代だろう。それから立ち上がるような動作音がしたかと思うと、倉庫の死角に沈んだところから、静かにひとりの女性が出てきた。
 白いワンピースが泥で汚れている。ワンピースと同じように顔は白く、それでいて黒い泥で汚れている。すっとした鼻が知的な印象だ。両足とも靴を履いていなかった。怯えたような上目遣いで、ふう、とまた息を吐いた。
「ありがとうございます。助かりました」
 さっきより発音が正確だったが、ぎこちない声だった。
 このような恐慌事態のあとすぐに、見知らぬ同年代の異性に対して真正面から感謝を伝えるのはそれほど簡単ではないのでは、と佐藤は思った。
 とりあえず、この事件への対応について話し合った。話しているうちに、お互いに緊張が抜けていった。さすがに笑顔になることはお互いにできなかったが、声の調子が少しずつ明るくなっていった。
 この件については警察には通報したくないし、通報しないでほしい、このあとは自分で病院に行くから大丈夫だ、と彼女は言った。その首元には、暗闇に光る十字架のネックスレスがあった。
「わたしは他人を怨みません。誰かから怨まれるのは嫌なことです。他人にやられて嫌なことはやらないんです」
 信じられないような言葉を当たり前のように吐き出してから、彼女は、その十字架のネックレスを静かに握り締めた。
 佐藤には、わからなかった。逃げ出した犯人は、クソが、いいとこだったのに、と吐き捨てていた。もはや救いようがない。あのとき佐藤が声を上げなければ、そのあとどうなっていたのか、わかったものじゃない。無残に殺されていたかもしれない。あんなやつを怨んだところで、べつにバチはあたらないだろう。まして、男性の想像できる範囲なんて、たかが知れているのであるから、佐藤がそう思う以上に被害女性はより強くそう思うのが一般的なのではないだろうか。
 それなのに、彼女は言った。自分に酔っているような雰囲気もなく。
「わたしは蛇になりたくない。毒蛇には。毒蛇を退治するために戦うんじゃなくて、自分が毒蛇にならないように戦う。そう決めてるんです」
 いままで佐藤が出会ったどんな女性よりも、なにかが違っていた。魅力的でもあり、風変りでもあった。称えたいような気持ちもあり、その反面、正直なところ、なんかおかしいんじゃないか、とも思っていた。ちょっと、この人、大丈夫なのだろうか、と本気で心配するくらいに。  それが理子だった。