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◯拷問投票65【第二章 〜重罪と極刑〜】

「まあ、こんなのは気にしないでください」
 長瀬は、高橋実を元気づけるように声をかけた。
「一般人の感覚からして、とても受け入れられるようなものじゃありません。裁判員たちはこんな主張を鵜呑みにすることはないです。裁判官たちは法的な思考が身についているので、立証の有無によっては流されるかもしれませんが……」
「その心配もない。だって、今回の事件には物証が多い」
 谷川が、長瀬の言葉を継いだ。そのとおりである。
「そうです。物証はすべてを語っている。被告人の自宅内には監視カメラがあり、消去される前にその記録を警察が押収しています。犯行の一部始終が記録されている以上、無駄に足掻いても、無意味です」
 犯罪事実を認定するにあたっては、種々の証拠から犯罪事実を立証する必要がある。教科書的には、合理的な疑いを超える程度の証明が要求される、と言われている。たとえ常識的にほとんど犯人が明らかであったとしても、本当に犯人なのだろうか、という疑いが拭えない場合は無罪判決を出すしかない。
 今回の事件については、被告人が三つの殺人に手を染めていることは、被告人自らの記録映像のおかげで明らかである。故意による利己的な殺人であることも、簡単に立証することができるだろう。
 なにか想定外の事実関係が新たに発見されでもしない限り、死刑判決が言い渡される可能性はきわめて高い。重要なのは、事件を担当する合議体が死刑判決にしようとなったときに、無投票付き死刑に妥協させないことである。
「そろそろ、本題に入りましょう。はじめに被害者文書についての報告を」
 長瀬が促すと、高橋実は、フローリングの床に置かれていた黒カバンから自らのスマホを取り出した。そこに目を落としてから、「まだ……返信はないですが」とぼそり。なんらかのメッセージを送っていたのだろう。高橋実は、スマホをカバンに戻してから、テーブルの上に両手を置いた。
「とりあえず、被害者遺族の方とは、対面で接触することができました。第二の事件で亡くなった坂田真奈美さんのご両親も、第三の事件で亡くなった青井華さんのご両親も、協力する用意があることを確認していただきました。被害者文書の作成にあたっては、どちらも協力していただけるかと思います」
「前進です」
 長瀬は、噛みしめように、うなずいた。被害者文書の作成に向けては、いまのところ障害が生じていないようだ。
この文書の重要性は言うまでもない。
 裁判所に単純な死刑判決を出すように圧力をかけるためにも、そののちの拷問投票において賛成票を投じるように促すためにも、欠かせないプロジェクトである。
 この文書に記載すべき事実は、被害者や遺族たちの生き様だ。無関心に溺れている日本国民を振り向かせるためには、凶悪な事件の内容を伝えるだけでは足りない。日常的に米中の軍事衝突のニュースを見ている国民たちは、はっきり言って麻痺しているのだから。伝えなければいけないのは、むしろ、被害者や遺族たちの生々しい姿だ。同じクラスの同級生のように身近な存在として受け止めてもらえば、国民も、いかなる悲劇かについて思いを馳せてくれるだろう。
 できるだけ早いうちに完成させなければならない。
 拷問投票法第四五条の規定により、拷問投票の実施が公表されてからは、投票活動において利用できる事実に制限がかかってしまう。法的な規制がない現在のうちに情報戦をしかけなければならない。
 このプロジェクトの統括については、高橋実に任せてある。公判開始前日におけるインターネットテレビでの演説によって国民を味方につけた高橋実は現在、ある種の権力を握っている。ただその立場にあるというだけで、類稀なるリーダーシップを発揮することができるであろう。
 文書の作成にあたっては、著名な心理学者や、コミュニケーション研究の先駆者などに加えて、政治家の演説を研究している言語学者など、広範な分野の人たちに協力を呼びかけている。