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果てしない大地で生まれた文学について、もういちど向き合ってみる。

先日のゲンロンカフェで行われたオンラインの北海道イベントを観ながら、ふと思ったことがある。北海道が舞台の小説について、少なからず誤読しているに違いない。そんな予感がした。

北海道のイメージが都会的と思われるのは「方言」の登場が少ないことも関係しているだろう。活字でセリフを読むときも、背景を自分の知っているものに自然と置き換えることがたやすい。無意識のうちに行われている。

そして作者の方も、舞台を北海道に設定しているがゆえに「これが北海道なのだ」と訴えかける場面が増える。そうなると「知っている何か」を投影してしまう。そこに、読み手それぞれにイマジナリー北海道が生まれる。

小説の世界は、マンガや映画、ドラマなど画に関する視覚情報が極端に少ない。それが面白いところだ。

けれども、ことに北海道の描写に対して、わたしたち(道外の、特に首都圏の読者)は心してかからなければならない。作家が描こうとした景色に、なかなかたどり着くことができないように思う。

試みに再読を……と思って本棚を見やれば桜木紫乃『無垢の領域』があった(本当は時節柄、インクルーシブな環境について書こうと思っていたのだが)。改めて本を開いてみたら、新たな景色が広がった。

流れ者がたどりつくという道東の町を漂う空気。夏の湿気と冬の乾いた風。細かい地理的な描写は緻密さだけではない。それらは、北海道の内側から発せられた声だったのだ。

長年連れ添ってきた恋人が、釧路で暮らし始めて数ヶ月後に彼へと投げかけた言葉が[道東って、わたしにはあんまり合う土地じゃないかもしれない]だったこと。その彼が道東の湿気で気管支をやられ、ふるさとの景色をベッドで思い出す。[生まれ育った道央の夏景色はどこを探してもない。明日晴れるという予感もなく、淡々と始まった夏は雲の下で水平移動して秋になる]のだという。[ここは、札幌とも十勝とも、旭川とも違う。においも景色も、湿度も人も]……これらのニュアンスをつかめていなかった。

釧路市生まれの作者は、夫の仕事とともに札幌近郊に移り住んでいる。そのことを文字情報として知っているだけの状態と、北海道の深部に触れてから読み直すのとでは、見えてなかった背景が浮かび上がる。イマジナリーな土地ではなく、リアリティを持った土地として目の前に現れるのだ。

わたしは横浜の外れで育ったので、空気の乾いた多摩地域や23区北部は慣れないし、起伏のない中央線沿線が怖い。心象風景とあわさることで、いくつかの街には愛憎に似た感情を抱くこともある。そのような経験を重ねていたのだ。しかしおそらく、スケールが全然違う。

しかし、もう後戻りはできない。北海道で生まれた作品をもういちどすべて読み直すことは難しそうだ。というよりも、外部から訪れた者の「読み」という目線だって、否定するのは不毛だ。とはいえ、外国文学を読むような作法が必要なのかもしれない。

(もっとも、北の大地を理解するにはまだまだ及ばずなのだが……)

観たイベントはこちら↓↓

https://genron-cafe.jp/event/20210329/
https://genron-cafe.jp/event/20210330/

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