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メタバースと大阪のこと

2021年10月が終わった。この最終週、Facebookのメタ化が発表されて、日本の総選挙では大阪が独立の機運を見せた。一見すると相反する事象だけれど、これらはつながっているのでは。そう思えてならない。

メタバースは時空の概念を越えるという。

日本に限らず、人は長い間、さまざまな空白を消費することで満たしてきたように思う。政治的な空白も、愛情の空白、時の空白も。あらゆる日常における空白を嫌い、消費することで満たしてきた。消費とは金銭的なものにとどまらない。時間や肉体、精神まで。持つ者・持たざる者の違いを越えて、消費することで社会とコンタクトをとっている。

それに対してメタバースは、空白そのものを否定する。だから生産性はもっと上がると言いたい様子だ。

しかし、どうもうまくいかないような気がしてならない。それには、思考実験すら必要ない。今回の大阪の結果が、それを物語っていると思う。

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大阪で何が起きているのだろうか。結局のところ、あまりわからない。関東で普通に(特に政治に詳しいのでもなく、関西に縁者のない状態で)暮らしていたら情報が入ってこないのだ。「上方のまつりごとはよくわからない」……戦国時代ではなく、21世紀の出来事なのに。

そういえば、この2年ほど、県外ナンバーを許さないとか……都道府県の県境を声高に叫ぶ人たちが増えた。まったく違和感しかなかったのだが、もしかして、さほどこだわらない方が少数派なのだろう。

人というのは、誰もが自分を普通だと思うものだ。わたしも例外ではないのだけれど、自分には「ふるさと」や「実家」という物理的な場所が存在しない。きっとそれは、あまり普通とは呼べないと思う。

そんな暮らしをしていると気付きづらいのだが、ローカルにしか宿らない「何か」が確実に存在する。その「何か」を渇望している人が増えている。明らかに価値観の違う人とたまに話してみると、見つかるものだ。

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その「何か」とは、もしかしたら、人との距離感を埋めようとする代償行為かもしれない。あるいは無力感に覆われたときに「自分も変化に参加できた」という成功体験とか。それはひとつの、消費の形だと思う。

このように考えると、大阪に限った話ともいえない。しかも、一見するとイデオロギーが対立しているように見えても、行為の根源は似ている可能性が高い。投票の呼びかけが増えた理由も、意外とそんなところとつながっているように思います。

そもそも、投票に行かない人だっているわけですからね……。

空白を満たす消費。その選択肢のひとつに(というより、あるコミュニティでは必須のこととして)メタバース的な時空間も存在するようになる。それだけの話のような気がする。これまでのインターネットがそうであったように。

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