TOKYO2020で、ようやく近代が終わるかもしれない
山縣選手が9秒95。内村選手が代表内定。有明アリーナに植樹。そんな日に、このnoteを書いています。
やっぱり今日もTOKYO2020の話になりそうです。すみません。しかも、長い。無料部分は半分までです。
オリンピックを「五輪」と呼ぶのは日本の独自の表現です。中国語でも「奥林匹克」。カタカナでオリンピックとかオリムピックとか呼ぶのと同じ感じですね。
オリンピックは最初から「五輪」と翻訳されていたわけではありません。幻の1940年東京オリンピックが決まった1936年の新聞で、見出しに使われたのが最初らしい。
当時は長いカタカナの単語が連なるのが読みづらくて困っていたそうです。一紙が使い始めると、「これは便利!」と他紙も追随。広がって今に至ると。
ここで、あの白地に五色の輪が描かれた旗を思い出していただきたいのですが、準備はよいでしょうか。
たしかに5大陸を表す5つの輪が使われ、全体で「W(Worldの頭文字)」がかたどられています。ギリシャの神殿のモチーフだったとか、フランスの何かイベントの紋章だったとか、オマージュが何かははっきりしないのですが。とにかく第一次世界大戦の反省をふまえて、この旗は掲げられました(が、すぐに貴族の理想が瓦解するのは知っての通りです。NHK大河ドラマ『いだてん』参照)。
この5つの輪は大会のシンボルです。しかし、大会の名前と旗のモチーフを同一化させたのは日本だけです。このことが結果的に、日本におけるオリンピックの存在意義を聖域化することにつながっているのかもしれません。
この「五輪」という表記が採用された理由は、宮本武蔵の『五輪書』に端を発しています。しかし内容はあまり関係ないようで(そりゃそうだ)、新聞記者がたまたま読んでいた菊池寛の随筆に載っていたのに影響されたといいます。「文字数が省略できるから」という理由です。
そもそも、元をたどれば『五輪書』は密教の「五輪(ほかの教義では五大)」から名づけられたそうです。それはすなわち「地(ち)・水(すい)・火(か)・風(ふう)・空(くう)が宇宙を成す」……これは、サンスクリット文化ですね。五行思想とも違います。
人びとがこぞって『五輪書』を読むのは、兵法や剣術の解説を読みたかっただけではなくて、思想の趣を感じ取ろうとしたからです。日常的に触れた哲学・東洋思想も底流にあるでしょう。それを身体の鍛錬と共に。おや、ギリシャはどこに行った?そして近代の姿も消えていきます……。
こう考えると、「近代五輪」とは妙な響きです。
「近代五輪」と呼んでしまうとき、わたしたちは無意識のうちに封建社会を背負っているわけです。古いものを持ち込んだのではなく、同時代的なものとして受容していたはずです。宮本武蔵の逸話は、史実とは別の次元で愛されています(「三国志」の受容とも似ていますが)。つまり、仕方がないけれども、当時の日本における「近代」の時間軸はズレていたのでしょう。こうしたところが日本の独自路線なのかもしれませんが。
最近ではオリンピック・パラリンピックを「オリパラ」と略すことも多いですよね。その四文字を軽薄だと言う人がいる。たしかに、そうかもしれません。ただ、昔の人だって相当ライトな理由でワードを輸入していたことは、頭の片隅に置いておきたいものです。
むしろ保守的な人が「日本には五輪という言い方があるじゃないか」と胸を張るのは間違っていないでしょう。きっと、日本の軽薄な部分でもあるのです。
そもそも、まつり好きの日本人の特性を知り抜いていた軍部は、幻の1940年大会の準備にあたって「オリンピックは軽薄にしてはならぬ。断じて、これはまつりではない」という姿勢を貫こうとしていたそうですから。
そういう意味でも、やはりパラリンピックの概念が含まれていないワードを使うより、「オリパラ」という徹底的に軽薄にしてしまうことも妥当なのではと思います。
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