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「〇〇している場合じゃないのでは?」という罪悪感は誰も救わない
ここのところ、日本代表に選ばれるようなスポーツ選手の葛藤を耳にする機会が増えた。「こんなに苦しんでいる人がいるのにスポーツをやっていて良いのか」と。そのようなアスリートにこの文章が届くかはわからないけど、心から思うのは、ただひとつ。まったく、気に病むことなんてない。
そもそも、人を救うために競技をする人は、ほとんどいないはずだ。結果的に、誰かが勇気づけられることもあるかもしれない。けれども、それは副産物であって、主な目的ではない。
個人的なことを言ってしまえば、オリンピックもパラリンピックも、あらゆる国を挙げたスポーツの祭典は、わたし自身を救ってくれたことはない。たとえば、どんなに素晴らしい試合のあとでも、父親は暴言を吐き、酒を飲んでいびきをかいていた。わたしにとっては、それでよかった。目の前の現実は1ミリも良くならないが、別の世界は動いている。世の中はこういうものだと悟ることができた。
もちろん「だからスポーツの祭典が気に入らない」という人も一定数いる。当然のことながら、病める人や貧しい人にだって、楽しむ自由も嫌いになる自由もあるのだ。
おそらくは、競技を高いレベルでやってきた人は、自分がパフォーマンスを発揮することについて否定された経験が少ないのだと思う。また、スポーツが好きじゃない人の存在が目に映らなかったのかもしれない。そんなときに心の持ちようは難しいのだろうとは想像できる。
わたしのような、国を代表した何かになったことはない人に言われても響かないかもしれないが、選手が自らのために競技をするのに、誰の許可もいらない。だから何も気に病まないでほしいなと思う。そうでなければ、苦しんでいる人が浮かばれない。もちろん、愛する人の顔を思い浮かべるのも自由ではあるけど。
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