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生き抜いて、また信じあうために
意見の異なる人をどこまで許せるか問題は、シンプルだけど根が深い。違う立場や考えを、攻撃的にならずに言えるように、わたしもなりたい。そんな自戒もこめて、いま言っておきたいことを書こうと思う。
SNSの「運動」は誹謗中傷と似た構造をしている
SNSを使った誹謗中傷がクローズアップされているが、どうせならこのタイミングで、同じ場所で繰り広げられる「運動」についても、少し考え直してみてはどうだろう。
ことあるごとにSNS(特にTwitter)で行われる「運動」だが、それ自体にはあまり意味がないので、別のやり方にしたほうがいい。
感情ではなくて経験則での話だ。
実際のところ、あまり意味がない(一定の力はある)ことなのだ。
なぜなら、本当に声を届けたい人は、多くの場合は気にも留めていないから。真摯に受け止めるのではなくて「Xについて騒ぐならば、代わりにYを与えよう」ぐらいの感覚でいる(ということをさんざん見せつけられてきたはずだ)。
それだけでは済まない。その代わりに確実に苦しむ人がいる。それは「運動」の発信者を敬愛しながらも「関係者」と呼ばれてしまう人だ。
最近、オリンピック・パラリンピックの公式スポンサーが槍玉に上げられ、「不買運動」まで起きている(た)。作家やアーティストをはじめ、多くの人が参加をしている(た)。もちろん、全員ではないけれど、なかには「想像力をもう少し伸ばして欲しいなぁ……」と思うケースもある。
そこに関係する人々がどれくらいいるか考えてみてほしい。働く人、取引先、関係会社、周りの飲食店、その家族……。彼らのなかには、「運動」をするアーティストや作家のファンもいる。
そんな「関係者」でもあれば、いたたまれなくなるだろう。何も、ファンに媚びを売れというわけではない。けれども、彼らの声を確実に聴いているのは、本人が攻撃したい対象ではなく、圧倒的に、自身のファンだ。
それを念頭に置いて、語りかけてはどうだろうか。そうすれば、案外とうまくいくかもしれない。誰も敵を作りたいわけではないはずだから。
というか、そのようにしている人も、ちゃんといる。その人の意見のほうが、理解は進みそうな気がする。
それはおそらく、なんてことはない、話を聞いてくれそうな気配を感じ取るだけの話だ。そもそも、みんなが同じ意見になるはずがない。だけど、攻撃的になればなるほど、許容範囲が狭くなっている印象をつくる。これもコミュニケーションのひとつだろう。
2021年を生きるわたしたちは、SNSなどネットを通じたコミュニケーションについて、十分に学んできたはず。だから本来は、今こそ生かすべきなのだ。それでもなお、SNSでのコミュニケーションは、一方的で先鋭化しやすい。「誹謗中傷」と同じ構造をしている。そこで行われる「運動」は、特定人物への攻撃力が大幅にアップされてしまう。流れ弾の威力もすさまじい。
たとえ「憧れの人」や「推し」に逆らうとしても
なぜこんなことを書いているのかといえば、今いちばん苦しいのは、そういう大きな声を出せない人だと思うから。
わたし自身のことを話せば、もともと、東京でオリンピックもパラリンピックもやらないでほしいと思っていた。なのに現在、それらに生活の糧を握られている状況にある。このような状況で仮にわたしが強硬な反対論を唱えたところで、ダブルスタンダードと言われても仕方がない。本当に不甲斐なさを感じるが、およそ凡夫とはそのようなものだ。
自分がそうだから、というわけではないけれど。そんな人は、案外と多いのではないか。「推し」という言葉がとてもカジュアルに使われる昨今ゆえに、とても気になる。「憧れの人」や「推し」の本意じゃないところで、この時世を生きなくてはならない人は確実に存在する。それを、誰にも断罪することなどできない。
敬愛する人々から発信される、淀みなき正義の言葉。それはともて正しいことなのだけど。反対だと言うだけでは収まらず、心をえぐってくる。常日頃から豊かな言葉を紡ぐ人たちが、いとも簡単に言葉を刃に変えてしまう。それは、タイムラインという形態の習性なのかもしれない。
そうだとしても、人は生きていかなくてはならない。「推しとわたし」が成り立つのは、凡夫の「わたし」がいてこそである。生き残らなければ、何も残らない。もがいて、生き抜いた先に、再び信じてもらえることを願っている……そんな人は、存外多いのではないか。同じように気に病んでいる人がいたら、あなたを悪いと言える人は誰もいないのだと伝えたい。あなたの「憧れ」や「推し」の代わりに伝えたいけれど、こんな凡庸な声が、どこまで届くだろうか。
生きて、また出会うためにやっておきたい3つのこと
そんなことを言ったとて、誰もがやめる兆しがない。そこで、苦しんでいる人に試していただきたいことがある。
(1)「敬愛する人に否定されているわけではない」と唱え続ける。
(2)「敬愛する人」か「問題の場所」いずれかと、いったん距離を置く。
(3)自分の尊厳を守る
……全部やるのは簡単じゃない。年齢が上がるほど、思いのほか難易度が高くなるはずだ。でも、上記をやると決めるだけでも、落ち着ける。腹がくくれるとでも言うのかもしれない。
「体験者は語る」というものなので。もしも気に病んでいる人がいたら、ぜひともお試しいただきたい。
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