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世田谷吉良氏の旧臣・長島家と「経堂五丁目特別保護区」

世田谷区には4つの特別保護区があり、そのうちの二つ「経堂五丁目特別保護区」と「深沢八丁目無原罪特別保護区」は毎年春と秋の年2回公開されており、2021年11月27・28日、12月4・5日と連続した週末に特別公開されています。

本記事では、小田急線経堂駅と千歳船橋駅の中間地点にある「経堂五丁目特別保護区」について紹介いたします。

「経堂五丁目特別保護区」と「長島大榎公園」

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経堂五丁目特別保護区と道路を挟んだ並んでいるのは長島大榎公園は、ともに1953-1959年に世田谷区長を務めた長島壮行氏に関係した土地です。

長島家は世田谷城主吉良氏に仕えた旧家とされ、この辺りの土地を所有されているようです。

長島大榎公園は、この辺りの区画整理に協力した長島家が土地を寄付して作られた公園で、区画整理の記念碑が公園の入口にあります。

大榎の名は、かつて樹齢400年ほどの大きな榎があったことに由来します。

公園がある経堂5丁目17番地は全体が長島家の所有のようで、公園の北側は大きな長島家邸宅があります。

公園の西側も長島家となっていて、マンションが何棟か建っていますが、長島さんが建設されたものでしょう。

閉められた門は、それぞれのマンションの敷地の裏側、つまり経堂5丁目17番地の中央部に繋がっています。

経堂五丁目特別保護区(経堂5丁目12番)も長島家の私有地です。

保護区の北側のマンション、南側の六郷田無道に接する部分までが経堂5丁目12番となっていて、長島家の土地なのでしょう。

経堂五丁目特別保護区には湧水池があり、かつては北側を流れていた烏山川に流れ込んでいたそうです。

世田谷城は烏山川が蛇行して流れ、三方を川に囲まれた場所に建てられていますが、その上流に流れ込む支流の水源だったということです。

池には菅刈弁天社があり、江戸氏の城内にあったものを移したものと説明書きがあります。

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武蔵国豊嶋郡江戸郷を拠点とした江戸氏の城の場所は、現在の皇居の辺り、あるいは現在の水道橋辺りにあったとされているようですが、平川が武蔵国豊嶋郡と武蔵国荏原郡の境になっていたとされていることを考えると、水道橋辺りにあったように思います。

江戸氏は江戸郷を離れ、江戸氏の支流の一つで木田見(現在の喜多見)を拠点とし、江戸時代に喜多見藩を立藩して喜多見氏を名乗った木田見江戸氏は、室町時代は世田谷城主の吉良氏に仕えたとされています。

長島氏も吉良氏に仕えていた関係から、こちらに弁天社が移されたのかもしれません。

また、もう一つの江戸氏の支流で、蒲田を拠点とした蒲田江戸氏の治めた六郷につながる六郷田無道がすぐ南を通っていますので、そちら経由かもしれません。

古代末期の菅刈庄の発祥地?

菅刈弁天社の「菅刈」は、吉良氏が世田谷に来る前の古い名称「菅刈庄世田谷郷」に由来します。

江戸幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』の経堂在家村の項には「小名、菅刈谷戸、本村の坤(ひつじさる=南西)にあり、此辺菅の類繁茂したれば名とせり、当庄名(菅刈庄)の起りもこの地名によれりと土人いへり」と記されているそうです。

菅刈庄は、世田谷区の東部と目黒区の西部と大田区の一部にまたがる地域の呼称で、六郷田無道を千歳船橋に向かうと弁天池跡地と交差し、そこには「菅刈橋跡」があり、目黒区青葉台には菅刈小学校、菅刈住区、菅刈公園などにその名が見られます。

『新編武蔵風土記稿』の記述を見ると、この菅刈庄の名称の発祥地が現在の経堂五丁目特別保護区と考えられるわけです。

世田谷上宿を通過する古道「六郷田無道」

東海道の六郷と青梅街道の田無宿をつなぐ古道「六郷田無道」は、世田谷上宿(現:上町)を通過しています。

世田谷上宿は、小田原の北条氏政の楽市掟書によって、世田谷元宿の南側の矢倉沢往還沿いに開かれた世田谷新宿を元にしています。

世田谷新宿はその後に拡大して、下宿(現在の世田谷通り)、横宿(現在の駒沢公園通り)、上宿(現在のボロ市通り)の3つに分けられ、このうちの上宿を六郷田無道は通過しています。

上宿の西端から西に向かったところに、経堂五丁目特別保護区を始めとする長島家の土地があります。

上町にある代官屋敷は、吉良氏の家臣だった大場家が、世田谷新宿を開くに辺り、世田谷元宿(現:世田谷区役所)から移った場所です。

六郷田無道は重要な道だったことが想像できます。

吉良氏は世田谷城の各方面に防御の拠点として寺院や神社を創建していますが、各方面に重要な家臣を配置したのでしょう。

世田谷城の北側には赤堤砦(現:六所神社)の周辺は家臣だった松原氏が開拓したことで、松原村となっています。

世田谷城の北東には、家臣の斎田氏の屋敷が現在も残り、敷地の一部は斎田記念館となっています。
斎田記念館の北沢川の向かいには、吉良氏が創建した円乗院があります。

経堂五丁目特別保護区と長島大榎公園の辺りに話を戻します。

経堂五丁目特別保護区がある経堂5丁目12番と、長島大榎公園がある経堂5丁目17番に隣接する経堂5丁目13番は真ん中に真っ直ぐの道が通っていて、その先には大きな邸宅があり、表札は「長島」になっています。

番地は長島家の親戚同士なのでしょう。
六郷田無道の北側は長島家の土地ということです。

六郷田無道の南側の世田谷区桜ヶ丘小学校がある桜丘1丁目19番地には、長島硝子店があります。

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ということは、六郷田無道の南側も長島家の土地だったのかもしれません。

ただ、現在の住所では六郷田無道の南側は世田谷区桜丘、北側が世田谷区経堂で町の境になっています。

ちなみに、桜丘小学校が現在の世田谷区桜丘の地名の由来です。

吉良氏の家臣の多くは古代から世田谷?

三河から出た東条吉良氏は、奥州管領になって奥州吉良氏となり、家督相続争いで没落し、初代鎌倉公方の足利基氏から上野国飽間郷に移り、その後、鎌倉公方から武蔵国荏原郡世田谷郷の土地を譲り受けて拠点を世田谷に移して世田谷吉良氏となっています。

吉良氏は奥州管領の時は奥州をまとめる立場ではありましたが、その後は関東を治める人に仕えていきます。

鎌倉公方の後は、武蔵守護代の扇谷上杉家の家宰・太田道灌に仕え、その後は小田原北条家に仕えています。

小田原征伐によって北条家が滅亡すると、世田谷吉良氏は徳川氏によって世田谷を追われ、知行地であった千葉の長生郡寺崎に移っていますが、家臣の大場家、斎田家、長島家などは世田谷に残り、その後は彦根藩世田谷領に仕えています。

吉良の家臣たちの多くは、吉良氏が世田谷に来る前から世田谷を拠点にした家々であったため、吉良氏について長生郡寺崎には行かずに、彦根藩世田谷領に残り、現在も世田谷にお住まいなのでしょう。

経堂駅からも千歳船橋駅からも古道でアクセス

経堂五丁目特別保護区へのアクセスですが、小田急線経堂駅からも千歳船橋駅からもともに900mで徒歩11分の距離にあります。

千歳船橋駅は六郷田無道の北側にありますので、駅からは六郷田無道を歩けば到着します。

経堂駅からは二子方面を結んでいた古道「二子道(現:農大通り)」が走っています。

農大通りを南に下って、城山通りの交差点「経堂駅入口」を渡って先に真っ直ぐ続く道は、経堂五丁目特別保護区につながる道です。
経堂駅入口は烏山川緑道にありますので、この道は経堂五丁目特別保護区の池から烏山川にそそいでいたかつての流路だったのかもしれません。

参照)

Yahoo!ニュース 自然の宝庫「経堂五丁目特別保護区」が秋の一般開放
世田谷区 特別保護区
世田谷の古道を行く 六郷田無道(その3 大岡山〜世田谷)
世田谷の古道を行く 六郷田無道(その4 世田谷〜給田)
古神田川の流れは
目黒区 目黒の地名 菅刈

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