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「FINAL FANTASY XVI」は人種差別への抑止力となりうる作品である

「FINAL FANTASY XVI」は日本のゲーム会社であるSquare Enixが制作しているロールプレイングゲームだ。1987年に発売されたFF1から数えると、ナンバリングシリーズでは本作が16タイトル目ということだから驚きだ。

FFは物語を進めていくゲームなのだが、タイトル通りに解釈すると「最後の幻想」になるので、物語の終盤では文字通り世界秩序が危うくなる。早い話が勧善懲悪なのだ。現世の社会秩序を乱して支配を試みる者を悪と捉え、プレイヤーが操るキャラがヒーローとなる。

原作も例外なく勧善懲悪である。だが、世界の支配を試みる悪と捉えるキャラクターが明確に存在すると同時に、小さい領域を少なからず支配しようとする「人」に対しての描写も絶妙に描かれている。社会の発展において、人が人を支配する権力にも相当フォーカスされている。

人類の汚点として奴隷の歴史がある。スペインは南アフリカで人を調達し、南米へ連れていき穴を掘らせて大量の金を獲得した。イギリスでは1833年に奴隷制度が廃止になるまでは、奴隷を扱うことそのものがステータスのような働きがあった。

人類史をしっかり振り返ると、今では考えられないようなことが割と普通におこなわれていたのだ。ここで恐いのが、割と普通という感覚だ。人を蔑み、物のような扱いをしても心が痛まず、むしろ周りと比べて自然とステータスのようなものが出来上がっていたりする。

生まれた時にはあったが、生きているうちに淘汰されたもの。生まれた時からすでになかったもの。この差はかなり大きい。前者は人生の経験値になりうるが、後者は知識として出会わなければ知りえないからだ。

世界は何かしらの制約に縛られることで、できる範囲が伸びたり縮んだりする。すでに支配されている場所もあれば、これから支配される場所もあるだろう。ただ、支配という制約が許せるのか時間的に耐えられるのかは、制約自体の性質に左右される。

クソみたいな世界に小さく人が営む秩序をデザインし、共感する人を増やしていく。そんな途方もない作業を頑なに実行するには、参考にしたいリーダー像が必要なのだ。ヒーローがリーダーなのではなく、ヒーローにもリーダー像が必要なのだ。幻想は受け継がれるのだ。

FFとは悪い奴を倒す物語だ。だがそれと同時に、世界を続かせるためにつらい部分を一身に受け、その命を使い切ったときに達成される駆け引きのような生き方を強いられる。人の世は儚きかな。ボケっとしていると平和ボケで動けなくなってしまいそうな世界に乾杯。


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