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彼氏じゃなくて、貴方が欲しいだけ。

好きな相手に見初められて最後に幸せを掴むというストーリーは、私が思い描く幸せの1つだった。優しくて性格のいい人であれば、最後に選ばれるという思い込みを私は捨てることができなかった。

現在、私には彼氏がいないけれど、ぶっちゃけるとめちゃくちゃ欲しい。顔の良くて優しくて性格の合う人と結婚したいと思ってる。

前回の流れを踏まえ、少し人を好きになることを深堀してみました。

結婚だけが幸せじゃないという価値観は知っている。イケメンが心休まらなくて浮気の心配があるというのも想像できる。嫉妬に狂うのも分かってる。好きな人と結婚したい人は違うというのとわかる。でも、でも私は好きな人と付き合って結婚したいんじゃ。外野は黙ってろ。

ただまあ、そこまで自分に自信がない。いじめや昔の容姿差別もそうだし、何より歴代彼氏に雑に扱われた経験が私の自己認識を狂わせてしまった。タイプの人には大抵彼女がいるから、つい気になる人がいても「どうせ私は選ばれない」「彼女がいるんでしょ」「なんでも話せる都合の良い存在にされるだけ」と思ってしまう。

過去の経験は、私を受動的な人間に育てるには十分すぎた。

幸いにも自分からいかなくても告白されたし、それなりに好きになれたし、付き合う機会には恵まれていた。なにより相手の好意が見えていたから、愛されると期待して付き合うことができた。次こそは、次こそはと思って沢山の人と付き合い、沢山傷ついて同じだけ別れが来た。大切にされたかったのに、愛情を得たかったのに、付き合った人はどの人も自己中で人を愛する能力に欠けている人だった。

周囲からは有難いことに「かわいいのに彼氏いないなんてもったいない」「なんで彼氏いないの?」というもったいない言葉を頂戴している。私が素敵な人に見初められるというストーリーを描いていることと同じように、周りもまたそうであることを肯定してくれた。気を遣っていないことは分かるけれど、私はその優しさが辛かった。

「いつかはそういう人に会える」って、会えないんだよな。好みの人、大体私を選ばないんだよな。周囲が思ってくれている私と本当の私は違っていて、だからろくでもないひととしか付き合えないんだよな。

事実と認識の差が猛威を奮って突き刺さってきた。いつかいつか、そう思って何年が過ぎた?何人と付き合った?何割が彼女持ちだった?お前は所詮そんなものなんだよ、と自分で自分を蔑むことしか出来なかった。

彼氏が欲しい。その一方で、私は誰のことも好きになることが出来なかった。愛する能力のない相手に悲しみながら、私にも愛する能力がないなんて似た者同士だよ。なんて滑稽なんだ。

"いい人"なら沢山いる。でも私にとって心をひきつける存在はいなかった。

そうだ、多分私はこれまで彼氏が欲しいだけで、誰かを強烈に欲したことがなかった。好きで胸を焦がしたり、訳もなく騒いだことだってあったけど、きちんと行動に移せたことなんてなかった。その人を得るために必死になったことなんかなくて、いつも誰かを待って愛情を貰って幸せになろうとした。

こうやって自ら行動に移して、ようやく私が好きだと思う人は少なかったことを悟った。

人を好きになるってどういうことなんだろうか。顔が好きとか、優しいから好きだとかはよく言われるけどそれって条件の1つに過ぎないことなんだと思う。過去の彼氏の好きだったところを思い浮かべてみるけれど、もし事故で綺麗な顔が失われたら?もし身体が不自由になったら?子供を産んで欲しいとせがんできたら?…私は生涯関係を続けることが出来ただろうか。

果たしてこれまでの人生で、条件ではないところで人を好きになったことは何回あったのだろうか?きっと、一度きりだ。

あの時は、相手の条件なんかどうでも良かった。Yさんは優しかった。いつも暖かかった。でもだから好きになったんじゃない。

きっかけも、好きな所も思い浮かべられるけれどそれが全てではないような不思議な感覚に陥る。考えても好きな所を出してもこの感情を説明しつくすことなんかできなくて、まるで雲をつかむ様な気持ちだ。

でも確かにある。目に見えたり口に出したりすることはできないけれど、"Yさんを好き"という気持ちは確かに存在している。それは恐らくYさんがうつ病になったり事故に遭ったりしても変わることはないし、生涯を誓うことだって、できると思う。

きっと人を好きになるというのは、その人の存在をまるごと好きになるということだ。側にいなくても、高いプレゼントを貰わなくても、イケメンだとか人に自慢できるステータスがなくても、その条件をひっくるめて相手を好意的に見る行為だ。

その人の外見や目に見える何かが変わってしまっても、核となる部分が変わらなければきっと好きでいられる。その部分に惚れていれば心が動くことも、きっとない。

私が欲しいのは彼氏という存在ではなくて、きっとそんな風に自分の核をがっちり掴むようなそんな相手。つまりその人自身を欲しいと思えるような人。

もしそんな相手が見つけられたとすれば、私は誰かに見初められて幸せを掴むという夢物語を捨てるだろう。その相手を心底惚れさせるために努力して、自分から心を掴みにいくだろう。

私に必要なのはただ自然と待って幸せを享受させてくれる相手ではない。受動的な人間が積極的に幸せを掴みにいく時、それはこれまでの価値観をひっくり返すような相手に会った時のみだ。

その相手を前にして、私は受け身でいられるだろうか。仮に相手に好ましく思われたとしても、相手だけに距離を詰めさせるようなそんな狡いまね、できる気がしない。

人に近付くのは怖い。近付かれるのも、怖い。拒絶と受容の相反する可能性を孕んだやり取りは、綱渡りのようにギリギリのバランスで進んでいく。恐怖を越えて近付いてくる好ましい相手に私がすべきことは、安心を与えること。「近付いてもいいですよ」というサインをおくること。

それでも不幸か幸いか、私は非常に男慣れしていると思われる。そのためよく「遊びでしょ?」と勘違いされて距離を置かれてしまう。

もしこれが好ましい相手なら望まない展開だ。そんなときは、是非こう言おうと思う。

「彼氏じゃなくて、あなたが欲しいだけ」


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