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スぺカレ~慈悲のこころ~

スぺカレ 仏教ゼミ
・慈悲の心
・因果と縁
・豊かな人、同朋の存在

人の悲しみを自分の悲しみにする、他者の成長や楽しさを一緒に喜ぶことが慈悲である。
その完成形が如来であり、慈悲そのもので利他業の完成ともいえる。常に人のことを考えており、その考えは自身を考慮していない、つまりは自身の損得を全く考えないのである。
人間が如来のように慈悲そのものになるには相当な修行が必要になるため、非常に難しい。煩悩にとらわれたり、六道にハマってしまったり、人間が完成形になることは厳しい道であるが、人のために考えられること自体が尊い行いであることを気づかせてくれる。
この例が子育てである。自分の子ではあるものの、自分とは別の人間のためを思って考えたり行動したり、時に一緒に悲しんだり喜んだり。子育ては慈悲の心に満ち溢れた営みである。
山口周は「余裕がある人は公共や他社の未来に目を向けることができる」と言っている。EQが高まってくると他者の将来まで考えることができる。

浄土教のなかには、他者のことを考えたその一瞬が尊い、その一瞬のことを一念という。

因果と一念についてみてみる。物事にはすべて原因と結果がある。その途中に”縁”が存在する。縁とは環境や状況のことで、縁によって結果が大きく左右されていく。
例として法事に行きたいと思ったおばあさんの話を挙げる。おばあさんは法事があることを聞き、お寺にどうしても行きたい!と考えた。しかし自身は足が悪く歩いて出向くことができないため結果として法事にはいくことができなかった。ここで大切にしたいことが「法事にいきたい!」と思ったその一瞬、その一つの考えである。結果は縁によって左右されてしまうが、他者のことを思った一瞬は間違いない事実である。そのため仏教では他者のことを思ったその一瞬を尊いものとして扱っている。

そんな他者のことを考えられる人はどんな人なのだろうか、その中の一つを紹介する。
豊かな人は心を耕している人のことを指す。culture(文化)とはcultivate(耕す)が語源になっている。つまりは豊かな人(文化人)は心を耕している人ということになる。心を耕すにはどうしたらよいのか。
仏教では釈迦の教えを聞くことで心が耕されるといわれている。それは一人で耕すものではない、釈迦の教えを聞きたいという人はたくさんいる。そこで集まった仲間を同朋という。みんなで一緒に心を耕す仲間であり、先輩も後輩も関係ない、釈迦の教えの下ではみな平等だからである。
その中で有名なのが親鸞のエピソードである。親鸞は弟子をつくらなかったという。親鸞の中では釈迦の教えの下ではみな平等で同朋。念仏を一緒に唱える友だちと捉えていたのである。親鸞のその考えに感銘をうけてついていく人はいたそうだが、本人はみな同朋として関わっていた。

この教えは現代でも十分に通じるものがある。心が耕されていない人、からっからの痩せた畑になっている人はいないだろうか。どんな種を植えてもすぐに枯らしてしまう、自分では畑を耕さないのに人の畑をうらやんでいる人、心を耕すということは非常に人間として成長していくために必要なことであり、手入れをしないとすぐに畑は痩せていってしまう。耕すことを意識しながら一緒に耕す人を大切にできたらより良い人生が送れるのではないかと考える。

まとめ)慈悲の心、心を耕すこと、仏教を知れば知るほど現実の問題点とつながって自分の在り方を考える。自分の畑の状況はどうであるか、自分を常に振り返り、耕した豊かな心で他者のために素敵な作物、実りを提供できるようにしていきたい

まなちゃる


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