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韓国アスリートはなぜ強いのか?~心技体を超える第4の力の秘密に迫る

高等戦術「音攻」とはなにか

 韓国という国の価値観や美意識とわれわれのそれがいかに違うのかをまじまじと見せ付けられるのはスポーツの国際大会です。試合中のラフプレーや対戦チームを侮辱するジェスチャーはもちろんのこと、ホームでの疑惑の裁定、試合結果を不服とする座り込み抗議など、スポーツに「正々堂々」とか「潔さ」というものを求める日本人からすれば、唖然とさせられることばかりといえます。
 1969年アジア青少年サッカー選手権大会で、韓国選手たちは優勝筆頭候補のイランを対戦チームに迎えるにあたってある秘策を練りました。それは、ゲーム中、接触に乗じてあらかじめシャツに隠し持っていた釘で、イラン選手の尻や腕を刺すという驚くべきものでした。韓国チームはこの反則を駆使することで、みごとイラン・チームを打ち負かし、準決勝出場をもぎとったと、これは韓国のTV番組(2006年5月放映)の中で「韓国サッカー史の秘話」として誇らしげに紹介されたエピソードです。
 アスリートがアスリートならサポーターも推して知るべしで、スタンドで政治的主張の書かれたプラカードや対戦選手を侮辱するボードを掲げるなどは朝飯前。
 かの国には「音攻」という言葉があるそうです。これは、対戦チームの宿舎をサポーターが囲み、夜通し銅鑼や鉦(※ルビ・かね)を叩いて騒いだり、客室の電話のベルを鳴らし続けて選手の睡眠を奪うという「高等戦術」だそうで、元韓国サッカー協会技術委員のチョン・ウォンジェ崇実大学教授も、「開催国が享受する当然の権利として認められている」行為であると主張してはばかりません。実際に、2002年のワールドカップでは、ポーランド代表が対韓国戦の前夜、宿泊する釜山のホテルでこれをやられて、本領を発揮できぬまま敗退しているのです。2007年6月の女子バスケットボール・アジア大会で仁川に宿泊していた日本チームも「音攻」の洗礼を浴びています。

「音攻」は開催国による当然の権利だ。朝鮮日報2006年2月6日付。
「音攻」は旧約聖書の時代から。ヨシュアの一団はラッパの音で難攻不落のエリコの壁を打ち破った。古代イスラエルの民はウリナラ起源。

韓国流の価値観を知れ

 スポーツ大会における韓国人のこのようなふるまいを一語で表現する日本語がありました。――「卑怯」です。この語を辞書で引くと、《勇気がなく、物事に正面から取り組もうとしないこと。正々堂々としていないこと。また、そのさま。》とあります。さらに調べると、語源は『詩経』の「六儀」の風、雅、頌、賦、比、興のうち、比(直喩)と興(隠喩)を合わせた「比興」で、本来は「面白い喩え」のことをいい、平安時代まではこの意味で使われていたそうです。それがいつごろから今われわれが使っている「卑怯」の意味に転じたかはわかりませんが、「卑怯」といえば、日本人がまず忌み嫌う態度であるのはいうまでもありません。
 とはいえ、韓国の一連の行動を「卑怯だ」「卑怯なことはやめなさい」と非難したところで、「卑怯」を忌む文化にない人たちにそれが通じるわけがありません。非難の前提として、「卑怯はよくないこと」という認識の共有が必要ですが、それが成立しないのです。彼らに対して「卑怯」という概念を説くのは、飛行機というものを見たことのない未開の原住民に「金属の乗り物が人を乗せて空を飛ぶ」のだと説明するようなものかもしれません。
 とりあえず、韓国に対して「卑怯」という非難は無意味であると思ってください。それが本稿の提案です。危険な釘攻撃や睡眠不足による判断ミスが事故を招きかねない「音攻」は論外にしても、ある程度の「卑怯」は彼らの価値観、美意識として認めてみるのです。徹底的にポジティブに、そして冷めた目で韓国を見つめてみるのです。

第4の力―「卑怯力」

 一時期話題になったベストセラー本で『老人力』(ちくま文庫)がありました。著者は、先だって物故された美術家の赤瀬川原平氏です。この中で赤瀬川氏は、年齢を重ねるとともに誰にでも現れる、物忘れや視力の低下といった種々の現象を「老人力」という言葉に置き換え、「老いた」でなく「老人力がついた」とポジティブな解釈で捉えることを提案しています。まさに発想の転換です。この本が高齢者社会のバイブルといわれたゆえんでしょう。「老人」と呼ばれるにはまだしばらく時間がある私ですが、いずれゆっくりとこの本を読ませていただくときがくると楽しみに待っています。
その上で赤瀬川氏から発想の一片をいただくことにしました。それがタイトルにもある「卑怯力」という言葉です。

本稿を書いてはや7年、但馬も少しずつ老人力がつきました。特にヘソ下が。

 韓国チームは「卑怯力に優れている」、韓国は日本より「卑怯力で勝る」という具合に使います。逆にいえば、日本チームは韓国チームに比べ「卑怯力に劣る」のです。現に「卑怯力」では日本は、韓国チームの足元にも及ばないという事実を、数々の大会で思い知らされたものでした。
「卑怯力」という言葉にまだ若干抵抗があるという場合は、「H力」でも、語源まで遡って「比興力」でもかまいませんが、要するに韓国人アスリートに天性として備わった第4の力があると仮定するのです。ここでは一応「卑怯力」の語で統一させていただきます。


ライダーダブルキック!近賀選手を鼻骨骨折に追い込んだ。あわや失明とも。

 昔から日本では、スポーツの真髄を心技体と言い表してきました。要するにアスリートに不可欠な、精神力、技術力、体力(身体能力)の3つの「力」です。この3つの要素のうち「心」(精神力)を筆頭に置くところが実に日本らしいと思います。西欧のスポーツ理論では、これが逆で、体技心の順番になるのでしょう。まず、身体能力を自己の最高値にまで高め、技術力の向上をはかり、最後にイメージ・トレーニングを含めたメンタル部分の鍛錬というわけです。
 明治以降、近代スポーツを導入して以来、日本は常に「体力」の壁に泣かされてきました。同じ競技で争う場合、どうしても体格、パワーで勝る欧米選手に比べ不利は免れず、ゆえに精神力、技術力でその不利をカバーする方向に日本のスポーツは進化していったのです。ときに軽い揶揄をこめて根性主義などともいわれます。その象徴的存在だったのが、1964年(昭和39年)東京五輪の「東洋の魔女」と異名を取った日本女子バレーボール・チームでした。大松博文監督の「俺についてこい」式根性主義の下、柔道の受け身にヒントを得たという回転レシーブなどの日本人ならではの小回りを利かせた各種テクニックを駆使し、みごと強豪ソ連チームを破って金メダルを獲得、世界をうならせたのでした。

東洋の魔女。昼間は女工さん、勤務を終えて深夜まで練習。睡眠時間3時間ということもざらだったという。まさに、根性と技術の賜物。

 つまり、10満点として、「体力(4)、技術力(3)、精神力(3)」が平均的な欧米選手(チーム)であるとすれば、日本選手(チーム)は「体力(2)、技術力(4)、精神力(4)」でこれに挑んできたのです。
翻って韓国はといえば、体躯は日本人選手とそんなに変わりありませんが、しかし、彼らには今いった「卑怯力」という第4の「力」がデフォルトで備わっています。「体力(2)、技術力(3)、精神力(3)、卑怯力(2)」とすればそれだけで10点です。大変有利ということになります。時に卑怯力は(4)の場合もあるでしょう。
 では、日本も彼らに見習って「卑怯力」を養えばいいかといえば、やはりそれは美意識や価値観というものが阻んでしまいます。世界有数の「卑怯力」を誇る韓国に、「卑怯力」なしで対抗するのですから、最初から苦戦を覚悟しなくてはいけません。やはり、日本人にはよくも悪くも根性主義がお似合いのようです。

相手の噛みつきを引きはがすには、鼻の穴に指を突っ込むのが有効だが、阿部香織選手にそれはできなかった。まだまだ日本は卑怯力では韓国アスリートの足元にも及ばない。
ジャッジを不服として、試合後長時間泣いてゴネる。幼児退行もまた大切な卑怯力の体現だ。これを競技化すれば、韓国は金メダルを独占だろう。

韓国人連盟会長で変わる女子フィギア

 女子フィギア・スケートの国際大会では、毎度のように韓国選手の疑惑の採点がとりざたされますが、その不可解な加点ぶんを「芸術点」ならぬ「卑怯点」と認識すれば、また違った見方ができるかもしれません。さらに一歩進んで、今後、国際スケート連盟の会長に韓国人が就任したことを念頭に、「卑怯点」が正式に導入される可能性についても語るべきでしょう。もし、それが実現したのならば、「卑怯」は競技を構成する重要な要素となり、「正々堂々としていないこと」でも「卑劣な行為」でもなくなるわけです。「華麗なる卑怯」「流れるような卑怯美」「氷上の卑怯芸術」などという常套句も生まれているかもしれません。問題はそのとき、日本がどこまで美意識というハードルを乗り越え、「卑怯力」を身につけることができるかということです。これは日本選手の新たな試練、課題となることと思います。
 2018年平昌冬季五輪、2020年東京オリンピック、2018年サッカー・ワールドカップ・ロシア大会、2022年同カタール大会……これからも韓国アスリートは、熱い卑怯マンスピリットで世界を魅了してくれることでしょう。

初出「世界大嫌韓時代 (MSムック) 」(メディアソフト) 2015年12月




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