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男は誰も人生のプロレスラー④~怨念のレスラー、ブラック・ロッキード

 なんとも、日本人の勘定を逆なでするような、嫌味なリング・ネームである。覆面レスラーは、遠征先で勝手にリング・ネームを変えることをよくやるから、これは来日用のネーミングだろう。正体も初来日かどうかもまったく不明の謎の男である。(国際プロレス「ビッグ・サマー・シリーズ」パンフレットより。1976年)

怨念のレスラーなどというと、怪奇派の実力者のように思われるかもしれないが、そんなことはまったくない。むろん、このシリーズ限定の即席マスクマンで、正体はレン・シェリーという、カルガリーあたりを仕事場にしていた無名のジョバーである。
当時、すでに国際プロレスは観客動員、人気ともども、新日本プロレスや全日本プロレスに大きく水をあけられ、マイナー団体の感さえあった。同年のプロレス界の話題は、賛否含めて猪木vsアリ戦が独占していたし、全日本もゴージャスな外人勢でこれに対抗していた。シェリーごときジョバーに覆面を被せ「正体不明の怪レスラー」に仕立て上げリングに上げなくてはならなかった国際プロレス吉原功社長の無念を察したい。
マスコミの国プロ・マイナー団体扱いも露骨なものがあった。東京スポーツも国際の試合を一面で扱うことは滅多になく、地方の興行などひどいときは試合結果だけを囲みで紹介するだけということもあった。
そもそも国際プロレス凋落のきっかけとなったのが、ストロング小林の離脱と対猪木戦での敗北である。これは世紀の名勝負といわれたが、国プロ絶対のエースとして君臨していた小林が猪木に負けたということで、イメージ的に新日>国際という図式がファンの間に自然と出来上がってしまう。抜けた小林の穴を埋めるべくラッシャー木村をエースに繰り上げたが、いかんせん木村には猪木、馬場に伍するだけの華はなかった。さらに、追い打ちをかけるように長年中継を行ってきたTBSからは打ち切りを通達される始末。まさに踏んだり蹴ったりの状況にあった。
実はストロング小林引き抜きの裏ではプレレスマスコミの動きがあったのだ。新日と小林の間をつないだのは、『月刊ゴング』誌の竹内宏介である。吉原は会見し、小林の契約違反を理由に、試合中止を求めて法的手段に出ると宣言したが、この試合の主催する東京スポーツは、「プロレス界の発展のためにもこの世紀の試合は実現させるべき」と主張、小林を「東京スポーツ所属」のレスラーとして、国際プロレスに移籍金という名目で1000万円を払うことで、試合を実現させてしまったのである。いわば、中立であるべき新聞メディア(というより運動部長の桜井康夫か)が、一方の団体に肩入れし他方の団体のトップレスラーの引き抜きに加担した形である。
先も言った通り、試合は昭和の名勝負と語りつがられ、これを機に新日本は大躍進。試合の模様を伝える東京スポーツも完売だった。ひとり貧乏くじを引かされたのは国際プロレスということになる。
吉原社長の東スポへの不信感は募るばかりだったろう。

そして1976年、ふってわいて、またたく間に日本中を騒がせたのは「戦後最大の疑獄事件」と呼ばれたロッキード事件である。

田中前首相逮捕を伝える当時の新聞。

事件の主役はあくまで田中角栄元首相だが、その他にも児玉誉士夫、小佐野賢治といった、フィクサー、政商と呼ばれる裏社会に通じる大物たちの事件への関与も明らかになった。児玉は病身で逮捕こそ免れたものの在宅起訴されている。
児玉は、右翼の大物として自民党政府とも関係も深く、裏表さまざまな顔をもつ人物だが、表の顔のひとつが東京スポーツ社主であった。
謎の怪覆面ブラック・ロッキードの登場は、国際プロレスをマイナー団体扱いする東京スポーツに対する吉原功社長の意趣返しの意味があったのだ。
「ロッキード、あくどい反則」「ロッキード、血だるまKO」、連日こんな見出しが東スポを飾るのを想像しながら、吉原は密かに留飲を下げたに違いない。タイトルの「怨念のレスラー」の怨念は、吉原社長の怨念である。
肝心のロッキードの戦績だが、田中忠治、大位山勝三に勝利したのみで、シングル、タッグともにあとはすべて黒星。「ロッキード、田中をKO」なんて、なかなかシャレがきいてまんな。

児玉誉士夫とプロレスとの関わりは深い。力道山の渡韓(里帰り)をサポートしたのも児玉だ。また、力道山のヒョンニム(兄貴分)の町井久之(鄭建永)東声会会長の後見人でもあった。力道山亡きあとは、田岡一夫山口組三代目とともに、日本プロレス協会の会長、副会長の座を務めている。

ロッキード事件といえば、70年代末、新日本プロレスの提唱で、国際プロレスもまじえ、長らく空席だった日本プロレスコミッショナー(実態は”新日本プロレスコミッショナー)に二階堂進自民党副総裁を迎えているが、この人こそ、田中角栄の側近として、事件の関与を疑われ「灰色高官」と呼ばれた一人。認定証を読み上げるためにリングに上がると、ハイイロコーカン! などとヤジが飛び客席がドドッと笑いに包まれることもあった。
二階堂コミッショナー、新日プロのタイトルマッチ宣言にはご本人が顔を出すことがほとんどだったが、国際プロレスのそれには「代理」を寄越すことも多かった。今思うとこんなところにも、国際プロレスがマイナー扱いされていたのかがよくわかる。

猪木と二階堂進。

今回はレスラーというより、プロレス団体社長である吉原功の苦悩の話になってしまった。馬場、猪木といったスター選手を欠きながら、外人助っ人、複数エースの導入、欧州マット界との提携、日本人対決、デスマッチ路線と、国際プロレスがプロレス界に導入したものも多い。インディーズ団体なんて概念がなかった時代、他団体の後塵を拝し、マイナー扱いされながらも歯を食いしばり15年も団体を存続させた男の背中には、やはりプロレスに人生をかけた者のロマンを感じずにはいられない。

真ん中が吉原功国際プロレス代表。名門早稲田大学レスリング部出身。魑魅魍魎、怪人ぞろいのプロレス業界で、まじめすぎたのが仇だったのかもしれない。

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