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「関東大震災」をはさんで見る(大正~昭和)内鮮・社会運動及び抗日テロ小史~半島テロリスト列伝

(はじめに)
 朝鮮のテロリストといえば、日本人ならば安重根がまず思い浮かぶ。しかし、安一人をテロ英雄に留めておくのは、日本人として忍びない。
 1919年の三一事件が総督府によって鎮圧されると、一部過激派分子にって、上海で自称・大韓民国臨時政府が、満洲で義烈団が前後して産声を挙げ、以後、多くの対日テロ事件が勃発しているのである。日本ではほぼ無名のそれらテロリストたちは、現在の韓国では抗日英雄とされ、教科書にその名が載り、多くは大韓民国功労勲章大統領章授を死後受勲し、銅像となって顕彰されている。彼らテロリストの銅像を見てまわるというのも、韓国旅行の新しい楽しみ方かもしれない(?)。
 三一万歳運動が、現在韓国側が主張するように、本当に「平和的なデモ」だったのだろうか。現に交番や学校が焼き討ちにあい、巡査をはじめ日本人にも多くの死傷者を出しているのだ。同時に、この事件は、日本及び総督府がそれまでの武断政治を改め文治統治に切り替えるきっかけとなったのも事実だ。三一騒乱を武力で鎮圧した長谷川好道を更迭させ、斉藤実を新たに総督として派遣したのはその証左だろう。斎藤は、統治にあたって、朝鮮人民の権利を大幅に拡大、教育や文化事業で多くの業績を残し、宇垣一成と並んで、名総督として当時の半島人に慕われた人物である。その斎藤の着任時に、爆弾を投げつけ亡き者にしようとしたのが、姜宇奎というテロリストだった(年譜参照)。
 また、原敬内閣は、三一運動の主導者の一人、呂運亨を日本に呼び国会で演説までしている。彼らの言い分も聞こう、という柔軟な姿勢である。権力に逆らった者は、五代五族皆●しの李朝時代には考えられなかったことではないか。

手塚治虫も影響を受けたという戦前の風刺漫画の大家・北澤楽天の作品。武断統治の限界を描いている。日本の知識階層には、三一運動に同情的な意見も多かった。

 呂をはじめ、崔麟、李光洙といった、現在、韓国で親日派(チムイルパ)=売国奴認定されている人物の多くにも、三一運動の関係者、臨時政府の初期参加者がいる。この矛盾を韓国人はどう思うのだろうか。三一事件も、彼らの中で未だ正当な検証がされていないのである。

※扉写真は、光復60周年に勢ぞろいした、抗日英雄の着ぐるみ。左から尹奉吉(弁当爆弾テロ犯)、柳寛順(女性独立運動家)、金九(臨時政府のテロリスト学校校長)、おなじみ安重根、不明。

半島テロ年表

◆1919年(大正8年)
1月 《パリ講和会議》 新韓青年党の金奎植(キム・ギュシク)が民族自立を訴え朝鮮代表として参加を希望するが、門前払いされる。
3月 三一万歳事件。
4月 上海で大韓民国臨時政府結成。但し、承認する国はゼロ。
?月 《朝鮮独立運動家・呂運亨(ヨ・ウニョン)が原敬内閣の招聘で来日》
9月 朝鮮独立運動家・姜宇奎(カン・ウギュ)が南大門駅(現・ソウル駅)で斉藤実朝鮮総督に爆弾を投げつける(2日)。斉藤は無事だったが、37人の死傷者を出した。
11月 朝鮮独立運動家・金元鳳(キム・ウォンボン)らが中心になり中国吉林省で武装黒色テロ組織・義烈団(ウイヨルダン)が結成される(10日)。のちに本拠地を北京に移す。
12月 この月から翌年1月にかけて、朝鮮全土で臨時政府メンバーによる資金集めの短銃強盗事件が多発。

姜宇奎。着任のため南大門駅(現ソウル駅)に降り立った斎藤実新総督に爆弾を投げつけるも斎藤は無事。その代わり多くの死傷者(いずれも朝鮮人)を出した。こんなやつの銅像がソウル駅前に建っている不思議。右手には爆弾。
金元鳳を扱った子供用偉人絵本。金は戦後、北朝鮮に渡ったために(のちに粛清)、韓国では長い間評価が定まっていなかった。近年、『暗殺』『密偵』と義烈団を扱った映画が作られた関係から再評価が進んだようだ。7

◆1920年(大正9年)
3月 平安北道の義州署の刑事・金明翼が独立分子3名に銃撃され死亡。金は、辞職をせよという脅迫を受けていた。また、宣川附近の泰山面の面長(村長)も射殺される。現場には「日本のために働く者は殺す」との犯行ビラ。(ともに15日)
4月 独立運動家の徐相漢(ソ・サンハン)が手製の火薬爆弾で、李王世子(李垠王子)夫妻の結婚を阻止する目的のテロを計画するも未遂に終わる(28日)。徐は「結婚が成立すれば、独立が遠のくと思った」と供述。また、徐は李夫妻だけでなく、斎藤実総督も標的と考えていた。
6月 密陽警察署爆破のための爆弾密輸容疑で義烈団メンバー、黄尚奎(ウォン・サンギュ)、郭在驥(クァク・ジェギ)尹致衡(ユン・チュアン)尹世胄(ユン・セジュ)申喆休(シン・チョリュ)ら逮捕。
8月 平壌市内の平南道庁で爆発テロ。隣接する警察建物に被弾、日本人警官2名が死亡。犯人は上海朝鮮臨時政府系の女テロリスト安敬信(アン・ギョンシン)で、安はその後、義州鉄道ホテル(8月5日)、ウイチョン警察署(9月1日)にも連続爆破テロを行う。当時妊娠5~6か月の身重だったという。
8月 安東県で、独立青年団メンバー16名が逮捕。
8月 京城で、支那紙幣のニセ札5万円を製造していた疑いで安祐●以下9名が検挙される。上海臨時政府の資金のためで、安は200万円ぶんのニセ札作りを計画していた。
9月 義烈団メンバー朴載赫(パク・ジェイヒョク)による釜山警察署爆弾テロ。橋本秀平釜山警察署長が死亡。日本人巡査2名負傷。
12月 義烈団メンバー崔壽鳳(チェ・スボン)、韓鳳仁(ハン・ウォンイン)、金元錫(キム・ウォンソク)による密陽警察署爆弾テロ。


マタニティ・テロリスト、殺人たまごくらぶ、安敬信。中学生の副読本らしい。
朴載赫。中国人骨董商になりすまし、古美術好きの橋本秀平釜山警察署長に面会、署内で爆弾を破裂させられた。死刑を言い渡されるが、獄中でハンストを貫き餓死。2020年10月には、釜山警察署爆弾投擲義挙100周年記念式が行われた。

◆1921年(大正10年)
?月 《朴春琴(パク・チュングム)を中心メンバーに親日融和団体である相愛会発足》※朴はのちに内地で国会議員も務める。
2月 朝鮮人参政権運動を主導するジャーナリストの閔元植(ミン・ウォンシク)が宿泊先の東京ステーションホテルで独立運動家の梁槿煥(ヤン・グヌァン)に暗殺される(16日)。
9月 義烈団メンバー金益相(キム・イクサン)、朝鮮総督府に爆弾テロ。
11月 朴烈(パク・ヨク)ら在日朝鮮人社会主義団体・黒濤会を組織。
 
 

金益相の伝記漫画。無関係な米国人女性を●しておいて、これが英雄か?

◆1922年(大正11年)
3月 上海で田中義一陸相(のちの首相)が義烈団メンバー・金益相(前出)呉成崙(オ・ソンリョン)らによる狙撃テロを受けるが無事。手榴弾で一般アメリカ人婦人がまきぞえになって死亡。
4月 アナーキスト古田大次郎、訪日中の英国王子暗殺を計画するも頓挫。
6月 義烈団による、有吉忠一朝鮮総督府政務総監暗殺計画が発覚。未遂。
6月  古田大次郎、中浜鉄が黒色テロ組織・ギロチン社を結成。
※ギロチン社は日本の団体だが、義烈団とも関係が深く、また日本の無政府主義運動と朝鮮独立運動は微妙にリンクしているので、あえてこの年譜に加える。
7月 《信濃川水力発電工事現場で脱走した朝鮮人労働者が多数虐殺される事件》
8月 義烈団による鴨緑江鉄橋爆破計画が発覚。未遂。
9月 朴烈が渡韓、京城で、共産党員で義烈団支援者の朝鮮無産者同盟会長の金翰(キム・ハン)と接触。
9月 9月 黒濤会が分裂、朴烈はよりアナーキズム色を鮮明にした組織・国友連盟(のちに国友会と改名)を新たに結成。金重漢(キム・ジュハン)、洪鎮裕(ホン・ジュンウ)、朴興坤(パク・ヒョンゴン)、金子文子らが参加。一方、労働運動出身の金若水(キム・ヤスク)は北星会を結成する。
9月 総督府に爆弾投擲(12日)。義烈団の犯行とされる。
11月 ギロチン社・古田、中浜ら朝鮮京城へ。義烈団と接触し、爆弾、拳銃の購入を申し込むが入手できず。
11月 《東京朝鮮労働同盟、次いで大阪朝鮮労働同盟が結成》

◆1923年(大正12年)
1月 義烈団の綱領「朝鮮革命宣言」を配布。武装闘争、暴力革命を呼び掛けた。起草者はジャーナリストの申采浩(シン・チェホ)
1月 朴烈が京城で金翰と再び会談。朴は爆弾50個の入手を依頼。義烈団とも接触。
1月 義烈団メンバー金相玉(キム・サンオク)、京城鍾路警察署に爆弾テロ。刑事一人が死亡(12日)その10日後(22日)には同区内で、1000人規模の警官隊と銃撃戦。警官16人を殺傷したのち自決。
4月 《朝鮮衡平社結成》※白丁解放運動
4月 義烈団による同時多発爆弾テロ計画が発覚。金始顕(キム・シション)金翰らメンバー18人を次々検挙。押収した爆弾36個は併合後最高数。
4月 朴烈、金子文子、不逞社を結成。雑誌『太い鮮人』(不逞鮮人のもじり)を発刊。

大田市にある申采浩の銅像。彼の暴力革命論は義烈団の思想に多大な影響を与えた。朝鮮の北一輝? 後年、東方無政府主義者連盟に参加。資金捻出のための贋金作りが原因で逮捕。旅順の刑務所で獄死。
『朝鮮革命宣言』。「暴力は私たち革命の唯一の武器だ」。朝鮮総督府の破壊や天皇暗●にまで触れている。


9月 《関東大震災》。大杉栄・伊藤野枝逮捕される。朴烈・金子文子逮捕される。
9月 大杉事件の報復としてギロチン社の田中勇之進が甘粕大尉の弟、五郎を襲撃。殺人未遂。
10月 ギロチン社の古田ら、摂政宮(昭和天皇)暗殺の資金調達のため十五銀行小阪出張所を襲い、銀行員を刺殺。現金強奪は失敗。
12月 第48通常議会の開院式に出席のため貴族院に向かった摂政宮のお召自動車がアナーキスト難波大助によって狙撃される。東宮侍従長・入江為守が軽傷。《虎ノ門事件》

金相玉。わずか拳銃2丁で日本警官400人と銃撃戦を展開したという。森杉。
大杉栄・伊藤野枝と並ぶアナーキスト・カップル、朴烈と金子文子。両カップルとも関東大震災の際、検挙される。のちに文子は獄死、朴は獄中転向し、出所後は民団初代団長となるが、権力闘争に負け韓国に落延びるも朝鮮動乱で拉北される(粛清)。
韓国文京市の朴烈記念公園にあるこの銅像は日本の民団が寄贈したもの。彼が本当に大逆を計画していたのかどうかは謎である。

◆1924年(大正13年)
1月 義烈団メンバー・金祉燮(ギム・ジソプ)、皇居二重橋爆破未遂事件(5日)。
?月 アナーキスト・白貞基(ペク・チョンギ)昭和天皇(当時は摂政宮)暗殺を計画し内地に潜伏。
7月 ギロチン社古田大次郎、村木源次郎ら、谷中の公衆トイレ、青山墓地で爆弾実験。
9月 朝鮮大邱で結成されたアナーキストの親睦団体・真友連盟の主催する読書会が官憲によって中止に。

義烈団・金祉燮の伝記マンガ。金は無期懲役(のちに大正天皇御大葬の恩赦で20年に減刑)、獄中死した。
白貞基。摂政宮を亡き者としようとしたが、失敗。天長節事件でも会場に入る入場券を入手できずウロチョロしている間に尹奉吉に手柄(?)を取られる。

◆1925年(大正14年)
4月 《治安維持法制定》
11月 義烈団メンバー、李鍾巖(イ・ジョガン)韓鳳仁ら11人が爆弾密輸容疑で逮捕される。連座して金在洙(キム・ジェス)、梁建浩(ヤン・ガンボ)、李丙泰(イ・ビョンテ)らも逮捕。

◆1926年(大正15年/昭和元年)
1月 黒色青年連盟結成を記念して東京・芝協調会館で演説会。私服警官の度重なる弁士中止の声に怒った700人の聴衆は暴徒化。芝―銀座間の店舗のショーウィンドウなどを破壊して歩いた。黒旗事件(銀座事件)。
5月 アナーキスト元心昌(ウォン・シムチャン)崔圭悰(チェ・ギョジョン)ら東京で黒色運動社を結成。
7月 金子文子、栃木刑務所で獄死。
10月 黒色青年連盟員、宮崎晃ら日立製作所争議に関わり社長・久原邸の玄関先に放火。
10月 《映画『アリラン』公開(羅雲奎監督)》※三一事件を題材にした映画。
11月、元心昌、陸洪均(ユク・ホンキョン)と共に黒色戦線連盟を組織、日本人団体の黒色戦線青年連盟に加盟。
12月 義烈団メンバー、羅錫疇(ナ・ソクチュ)が朝鮮殖産銀行、東洋拓殖株式会社を襲撃。殖産銀行内では手榴弾一個を投擲したが不発。東洋拓殖内で従業員複数名を銃撃し2名殺害。さらに警官1名を射殺したのち、自らもピストル自決(28日)。
 

元心昌。大杉栄と朴烈に心酔しアナーキストとなった。獄死した金子文子の遺体を引き取ったのも彼だった。


惨劇のあった旧東洋殖産銀行(現・外国為替銀行本店)前に建つ羅錫疇銅像。彼に殺されたのは朝鮮人を含む無辜の民だ。どういう神経をしているのだろう。


◆1927年(昭和2年)

2月  朝鮮人社会主義者と民族派が団結、抗日組織・新幹社を結成。
10月 張鎭弘(チャン・ジンホン)が贈答箱に偽装し朝鮮銀行大邱支店に贈った爆弾が爆発、警察官4人を含む6人が負傷(16日)。
11月 朝鮮人アナキスト・グループ黒友会が発展解消、黒色戦線連盟に。

亀尾市東楽公園に建つ張鎭弘の銅像。何も知らない小使いさんに爆弾を届けさせ、自分だけまんまと逃亡した卑劣漢。

◆1928年(昭和3年)
2月 日本共産党の機関紙「赤旗」創刊。
3月 共産党、労働農民党などの党員約1600人を治安維持法違反で一斉検挙(三一五事件)。
7月 《全府県警察部に特別高等警察設置》
1929年(昭和4年)
2月 黒色戦線社創立。
5月 朝鮮人労働者数千人が川崎で暴動。以後、同様の朝鮮人労働者の暴動、騒乱が各地にも飛び火。

◆1930年(昭和5年)
6月 朝鮮人アナーキスト団体・黒旗労働者連盟結成。丁賛鎭(チョン・チャンジン)ら。

◆1931年(昭和6年)
9月 《満州事変》
10月 赤色ギャング事件。東京市大森区の川崎第百銀行、拳銃の3人組男が押し入り現金3万円余を奪って逃走。日本共産党員による活動資金調達のための銀行強盗だった。

◆1932年(昭和7年)
1月 皇居桜田門付近で、李奉昌(イ・ボンチャン)が昭和天皇の乗った馬車に手榴弾を投擲。近衛騎兵1名と馬2頭が負傷。李は朝鮮臨時政府・金九(キム・グ)差し回しのテロリスト。(桜田門事件)
1月 《上海事変勃発》
4月 上海虹口公園で行われた天長節祝賀儀式で、尹奉吉(ユン・ボンギル)による爆弾テロ。白川義則陸軍大将、医師・河端貞次が死亡、駐上海公使(当時)・重光葵の片足を吹き飛ばした他、多数が重軽傷を負った。(天長節事件)
?月 白貞基(前出)、自由革命家連盟(のちにB.T.P=黒色恐怖団に改名)を組織。上海で日本領事館、兵舎などへの爆弾テロを繰り返す。
12月 元心昌(前出)ら南華韓人青年同盟(アナーキスト集団)メンバー、 天津の日本領事館に爆弾投擲。同グループはその他、停泊中の日本船舶や日本軍兵営にも爆弾を投擲。

手に爆弾をもつ李奉昌の銅像。目標は天皇の御馬車。これを見て怒りを覚えないやつは日本人ではあるまい。
李奉昌の桜田門事件をモデルにした韓国映画『日本天皇と爆弾義士』(1967年)。爆風を受けて近衛兵の眼球が飛び出すなど、ナンセンスな残酷シーンがてんこもり。
清掃してもらっている尹奉吉の銅像。その大きさがわかるだろう。▼は天長節事件の瞬間をとらえた映像。これにより、日中の和平ムードは吹き飛び、気をよくした蒋介石は抗日に針を振り切る。
ジョージ・フィッチ。アメリカの宣教師で国民党のエージェントだったの噂も。尹奉吉を車で事件現場に運んだのは彼だ。また、東京裁判での「南京大虐殺」フィクションにも加担している。上海臨時政府、蒋介石、アメリカが一本の線で結ばれた。日本ははめられたのだ!
おまけ。韓国のスタバの紙コップにデザインされて尹奉吉。ポイ捨てしたら怒られそう。

◆1933年(昭和8年)
3月 満洲ハルビンで女テロリスト・南慈賢(ナム・ジャヒョン)、逮捕される。日本大使・武藤信義を狙撃しようと徘徊中だった。(1日)
3月 白貞基元心昌李康勲(イ・カンフン)、駐中公使・有吉明暗殺を計画し拳銃、爆弾を用意するが、仲間の密告によって未遂。(六三亭事件)(17日)

映画『暗殺』で、チョン・ジヒョンが演じる女スナイパー(左)は、南慈賢(右)がモデルだという。但し、実在の南が活躍するのは、50歳を過ぎてからで、彼女には孫もいた。

1937年(昭和12年)
4月 上海で、抗日活動家・張権相(チャン・ゴンサン)が日本領事館警察によって逮捕される。

張権相。上海臨時政府設立に参加。同時に義烈団にも籍を置く。思想的なポジションではコミュニストで、レーニンから資金援助も受けていた。

(追記)
 表題に「関東大震災をはさんで」としたのは、今年(2023年)は関東大震災100周年であり、同震災時に起った朝鮮人虐殺事件が、さまざまな場所で語られるだろうことを予測してのものである。
 私は決して朝鮮人虐殺がなかったというつもりはない。ただ、巷間ひとり歩きしはじめている虐殺被害者6000人という数字はあまりにも非科学的でありえないといいたいのだ。当時、東京横浜併せて、居住する半島人は約9000人だった。その三分の2を殺害するなど無理な話だ。第一、半島人は逃げも抵抗もせず黙って自警団の刃にかかったというのだろうか。
 では、この6000人説はどこから出たのだろう。実はこの数字を最初に挙げたのは、上海臨時政府系の独立新聞なのである。
 あの三一騒乱からまだ4年、もし6000人もの大虐殺があったとしたら、それこそ半島はゆうに及ばず、内地でも大暴動が起っていただろう。当時、内地にいた半島人は労働者だけではない。大学生やジャーナリストといったインテリ層もいっぱいいた。目撃すべき立場にあった彼らがなぜ、帝都で行われた世紀のジェノサイドの一部始終を国の内外に発信しなかったのだろう。
 また、朴春琴の相愛会のように、がれきの撤去や怪我人の運搬などの救援活動をボランティアで行い、感謝状をもらう半島人グループもあった。もし、半島人なら見境なく自警団に襲われていたとしたら、彼らだって命が危なかったのではないか。
 独立新聞というのは、いわば過激派の機関紙(中核派『前進』とか)のようなものである。そんな新聞のヨタ記事を、賢明な半島良民は誰も信じていなかったのである。
 朝鮮人虐殺が「井戸に毒」という流言飛語を原因とするという話はよく聞く。実は三一騒乱を引き起こす最初のスイッチも「高宗が毒殺された」という流言飛語だった。もちろん流言だけで集団爆発するほど、人間は単純ではあるまい。それまで鬱積した不審や不満、あるいは偏見といったマグマが流言によって一気に噴出したとみるのが妥当だ。その点は大いに反省すべきだろう。
 で、年表をもう一度見ていただきたい。大正から昭和にかけての、エログロナンセンスに溺れる自由な空気の中で、労働運動や社会主義運動が大流行していた。特に朝鮮人労働者はそれらの運動と密接な関わりをもっていた。さらに過激な無政府主義運動も始まっていて、テロが多発していた。実際、義烈団が工作員を送り込み、震災に乗じて政府転覆運動を働いていたという情報もあったという。それらが、地震の恐怖と相まって、民衆の暗鬼を生み、あの悲劇に通じたのだという面も捨てきれないだろう。

警察が半島人狩りの先頭に立ったというのは真っ赤な嘘。むしろ民衆の軽率な行動を諫めていた。

 年表を作りながら気がついたのだが、半島人活動家によるテロは、満州事変のあたりをピークとして、それ以降は激減するのである。義烈団自身も内部分裂を繰り返し、1935年(昭和10年)には、完全に活動を停止してしまう。過激左派の半島人の多くも転向へと向かうのだ。
 警察力による検挙が功を奏したともいえるが、この頃になると内鮮一体のスローガンがほぼ浸透していたのではないか。
 そして、1937年(昭和12年)7月、日華事変が始まると、都内の半島人留学生グループが中心となり、「半島にも徴兵制度を求める」という運動が起こり、その血書嘆願は、衆議・貴族両院を突き動かし、翌1938年(昭和13年)に、陸軍特別志願兵制度が施行されると、定員に対し7倍の志願者が殺到したという。
 また事変勃発の直後、北京郊外の通州で邦人居住民200人が中国人保安隊によって凄惨なジェノサイドに遭う事件が起こっている。いわゆる通州事件である。実はその被害者の約半数は、当時日本人だった半島人であった。このときの被害者の数、氏名、亡くなった場所はすべて記録されている。関東大震災の怪しげな朝鮮人6000人虐殺にあれほど拘る左翼知識人が、通州事件の朝鮮人被害者に関しては、ほぼスルーなのも解せない。それこそ差別ではないか。
 ともあれ、戦争という非常時が、内鮮の一体をより強固なものにしたという私の考えは、今後も揺らぐことはないだろう。

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