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テロと国家の暴力

 島田雅彦氏の「暗殺が成功してよかった」は、どう考えたって文学的発言ではなく政治的発言である。彼を擁護する人士の中には、両者を意図的に混同、あるいは曖昧にして、発言の毒性を薄めようとする向きもあるだろうから、最初に断言しておく。
 島田氏が、実在のテロリストに共感し、事件を美化し、被害者である政治家を悪しざまに描こうと、それが作品世界での話なら、書くなという権利は誰にもない。それこそ表現の自由の問題なのだ。できた作品の評価は読者や批評家にまかせればいい。あの忌まわしい足立正生の映画にしても、上映されること自体、僕個人はとても不愉快だが、暴力でもっ上映を阻止しようという者があったら、そいつを非難する。それだけだ。

 島田氏が夕刊フジ紙に発表した謝罪なき「謝罪文」も読んだが、自己正当化と開き直りと論理のすり替えに終始したダラダラとした駄文というのが正直な感想だった。彼の代表作のタイトルをもじっていえば、『卑しいサヨクの言い訳小唄』である。しかも駄文の中で、ちゃっかり自分の小説の宣伝までしているのだからホホえましい限りである。

ツッコミどころは満載だが、ひとつだけ挙げるとすると、↓の部分。

≫言論に対する暴力的封殺であるテロリズムにも、先制攻撃や敵基地攻撃など専守防衛を逸脱する国家的暴力行為にも反対であることを明言します。

 テロという個人の犯罪と国家の安全保障の問題を同一に語り、論点をすり替え、さりげなく「アベガー」も滑り込ませている。これが、この人のブンガク的言語なのだろうか。
 また、島田氏の発言を擁護するネットの書き込みでも、「テロという暴力を否定するなら、国家の暴力装置である軍隊も否定されなければいけない」などとトンチンカンなことを意見も散見した。

 ついでだから、僕の「国家の暴力」について見解を述べて、回答にしたいと思う。

僕は八重山日報紙の拙コラム『目からビーム!』の中でこう書いた。

≫そもそも、安倍元首相銃撃事件に関しても、奈良県警やSPが、挙動不審者に充分目を配らせておけば、あの惨事は起きず、国葬もなかったのである。日本以外の国なら、犯人山上某が火器らしき物を取り出した時点で、躊躇なく射●していただろう。

新聞という媒体だから、こう書き方になったが、僕の本意は、「射●すべし」である。
軍隊の武力行使が国家権力による暴力行為であるなら、警官による発砲も国家権力による暴力行為だろう。凶器をもって襲い来る暴漢に、われわれ民間人が対応することは非常に難しい。この手の暴漢の暴力に関しては、暴力でもって阻止するのもやむをえないことがある。われわれ良民は警察官に拳銃を預け、暴力を代行してもらっているに過ぎない。
 同じく、安全保障を脅かす敵国の攻撃からわれわれの生命財産を守るために、軍隊に暴力をおまかせするのである。
死刑制度もまた、必要な国家権力の暴力であると思う。外道のような犯罪者が野放しにされれば、それこそ民間人による敵討ち、暴力に対する暴力による報復が横行し、治安が乱れる。死刑とは、国家権力に敵討ちを代行してもらうという側面は絶対にあるし、その側面はなくてはならないと思う。

 もちろん、国家権力による暴力には大きな責任が伴うし、その行使には慎重であるべきはいうまでもないだろう。冤罪者を死刑にするようなことはあってはならないし、国際法を逸脱する侵略戦争は絶対に許されない。また、中華人民共和国や大韓民国のように、国家権力が国民に銃口を向けるなどということは言語道断である。もっとも、人民解放軍は、国家の軍隊でなく、中国共産党の軍隊であるが。
 幸い、日本には天安門事件や済州島事件に類する事件もなかった。銃口が国民に向けられたことも、戦車が学生を轢き潰すようなこともなかった。警官は相手がどんな凶悪犯であろうと、可能な限り丸腰で対処している。そのために毎年、何人かの若き巡査が殉職しているという。日本は、国家権力による暴力に関しては実に抑制的だ。だからこそ、誰もが気軽に、国家権力を批判できるし、政府の悪口をいえる。これは思えば幸せなことではないか。サヨクの憧れる社会主義国に、そんな自由があっただろうか。

 それはさておき、国民から拳銃をお預かりしている警察官の皆さんは、理不尽なテロリストには毅然とした行動でもって対処していただきたい。奈良県警の失態で失った警察への信頼を回復するためにも。


 

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