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怨念の役者・三世澤村田之助

 三代目・澤村田之助。幕末から明治初期に活躍した美貌・美声の歌舞伎の名女形で、妖艶な毒婦などを得意としたという。
『月缺皿恋路宵闇』(つきのかけざらこいじのよいやみ)(別名『紅皿欠皿』)の公演中のアクシデントが、その後の彼の役者人生を大きく変えてしまうのである。

三代目澤村田之助(1845〜1878)。屋号は紀伊国屋

この『紅皿欠皿』という芝居の内容がまたすさまじい。継母が連れ子可愛さから、継子である主人公・楓姫を「欠け皿」と呼んではイジメぬくのである。吊り責め、蛇責め、さまざまな折檻場面が見せ場というSM嗜好たっぷりの演目で、田之助の醸し出す退廃ムードにぴったりといえた。
 悲劇は吊り責めシーンで起こった。彼を吊っている縄が切れ、縛られたままの恰好で舞台に落下。運悪く、突き出ていた釘がふくらはぎに刺さってしまう。血まみれ激痛の中でも、彼は最後まで舞台を務めあげたという。

初代澤村可川による『紅皿欠皿』

 しかし、その傷が原因で脱疽を引き起こし、右足を大腿部から切断することになった。その手術の執刀を担当したのが、横浜で西洋医療の開業医として名声を得ていたジェームス・カーティス・ヘボン博士。あのヘボン式ローマ字表記の生みの親であるヘボン氏である。
 田之助はその後もアメリカ製の義足をつけて舞台に立ったが、過酷な運命はまるで蜘蛛の巣のように彼の人生をからめていく。脱疽が再発し、今度は左足を失うことになるのだ。さらに時を経て、両腕を肘から切断。一度は引退を決意したが、板場(舞台)の魅力は捨てきれず、すぐに復帰したというから、まさに役者の執念、いやこの人の場合、怨念というべきか。しかし、往時の人気は取り戻せず、ほどなく二度目の廃業、その後は精神錯乱を繰り返し33才の若さで悶死してしまったという。
 この澤村田之助の大ファンでもあったのが、文芸評論家でもあった絵師の伊藤晴雨。晴雨はなんと田之助をモデルに春画を描いている。

 連作になっているが、さすがにここで紹介するのは▲が限界だろう。ご興味のある方は「澤村田之助 伊藤晴雨」で検索してみてください。

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