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半島の舞姫と関東大震災

※扉写真は崔承喜(中央)と淑明女学校の同級生。

崔承喜。内地に来たばかりのころと思われる。可憐な中に利発そうな雰囲気を漂わせている。

 半島の舞姫・崔承喜が京城で石井漠と出会い、弟子入りを願い出て、内地へやってきたのは大正15年(昭和元年)、彼女が16才のときのことである。関東大震災からまだ3年しか経っていない。官憲が中心になって6000人もの朝鮮人を組織的に虐殺するような国に、はたして年端もいかない少女がきたがるだろうか。周囲の大人は止めなかったのだろうか。素朴な疑問である。 石井漠の自伝『おどるばか』に、崔承喜との出会いと、彼女の渡日の様子が書かれている。

今も残る自由が丘の地名は、石井漠の命名である。

止めるどころか、ささやかな壮行会には崔承喜の父や兄も参加し、出発の日にはホームに大勢の人が見送りに現れていたという。母親との別れの愁嘆場には、石井自身もかなり驚いたようだが、汽車が動き出してからの承喜のケロリとした態度を見ると、それが朝鮮流の愛情表現、感情表現であることが理解できる。
承喜を石井に引き合わせた兄・崔承一は、ラジオ局でシナリオを書きながら、プロレタリア作家として同人活動を行っていた人で、いわば当時の左翼インテリ。ならば、震災時、朝鮮人とともに社会主義者が官憲の犠牲となったといわれる日本へ、なおさら可愛い妹を一人で行かせるだろうかと、これも素朴な疑問なのである。
事実をいえば、当時、大正デモクラシーの波に乗って社会主義運動が流行していたが、単に労働運動に参加したぐらいで、官憲に拷問されるなどということはありえない。警察が目を光らせていたのは、社会主義者の衣を着た無政府主義者たちで、彼らの多くはテロリストでもあった。同じように、朝鮮人が独立志向を口にしたぐらいでしょっ引かれることもない。ただ、一部独立派の活動家の中には、社会主義者や無政府主義者と結託し、反社会的行動に出る者もして、当然それらは監視対象であった。朝鮮人無政府主義者によるテロ事件に関しては別項年表を参照にされたし。

そん[ な折りに起こった大震災である。民衆のパニックは、朝鮮人に対する疑心を生み、それが悲劇につながったことは事実であろう。ただし、官憲はむしろパニックに踊る民衆を諫めていた。独立新聞の報じる被殺害者数6000人という非科学的な数字に関しては、当時の朝鮮でさえまともに取り合う者はいなかった。

崔承喜の兄・崔承一と馬賢聰夫人。没落両班の長男として生まれた承一だが、妹を舞踊家にさせるなど、かなり進歩的な考えをもった人物だったようだ。承一夫妻らもまた戦後、妹一家とともに北朝鮮に渡り、そして消息を絶った。社会主義者の弾圧が激しかったのは、日本よりも韓国だったのである。

『おどるばか』に戻ろう。
「日本の天皇さんを拝む気にはどうしてもなれない」と言ったのは16才の承喜の偽らざる気持だったろう。これを諫める師・石井漠の言葉も胸を打つ。
「サッチョン・マク」(石井漠)というサーカスの親分が、という噂のくだりには思わず笑ったが、案外、いわゆる「強制連行」の伝聞の類の正体はこんなものだったのかもしれない。
「天皇さんを拝めない」と言った崔承喜だが、後年、2年弱の欧米講演旅行を終え"帰国後”、マネージャーである夫・安獏(彼もプロレタリア作家だった。朝鮮プロレタリア芸術連盟=カップの創立メンバーの一人)とともに、真っ先に向かったのは皇居である。韓国側の文献では、これを「(独立派としての本心を悟られないための)カモフラージュ」としているが、果たしてどうだろうか。
石井の舞踊研究所から独立後、彼女がホームグランドにしていたのは軍人会館(現・九段会館)の舞台だし、彼女の最初の舞踊研究所も九段(現在の昭和館の場所)にあった。戦時中は、靖国神社の能舞台で奉納舞踊を行ったことも記録されている。そして、終戦は慰問先の北京で迎えるのである。

🔺崔承喜のデビューといわれる『グロテスク』。三越百貨店屋上にて。

『グロテスク』の衣装をつけて。

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