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目からビーム!142 LGBTQなんて誰が言った?

 LGBTに最近はQまでついてLGBTQというらしい。ではQとは何かといえば、「クエショニング」とやらで、自身の性自認や性志向が定まっていない状況のことをいうのだと。そんな小難しいことを言わずとも、少年期は誰でもみなQではないのかと僕なんかは思う。
 精神的に未分化な年齢では、同性異性の区別は曖昧だ。恋愛の対象が同性に向くことも珍しいことではない。戦前の、異性忌避の風潮が強かった時代の子は、とりわけその傾向が顕著だっただろう。フロイトによれば、男女問わず幼年期の性愛対象は母親だという。自我の目覚めとともに、性愛の対象が母親から、仲のいい同性の友人や先輩へ移っていくのである。ちなみに、里見弴の初恋の相手は兄有島武郎の親友の志賀直哉だった。女子も例外でなく、その手の疑似同性愛をエス(シスターの意)の関係といい、石坂洋次郎の小説にも登場する。
 思春期を経て、多くは自然に異性愛へ移行するが、中にはそのまま同性愛にとどまる人もいる。どちらにしろ、病気でもないのだし、Qなど放っておけばいいのだ。それを一部の活動家が教育現場にまで出っ張って、「君は男の子が好きなんだね」とか、「性は自分で決められるんだよ」などといらぬ洗脳を行うのは、実に危険だ。彼らは子供に性の選択権を与えるのではなく、傲慢にも己れが無垢な子供らの性の決定者でありたいのだ。
 僕は仕事柄、さまざまな性マイノリティたちとの一期一会を経験してきた。ある真正レズビアンの女性は、「男なんて気持ち悪い。男とは1メートル以内に近づきたくないの。今日は特別よ」といって、インタビューに応じてくれたが、喫茶店のテーブルに向き合いながら、彼女の張った見えないバリアを感じずにはいられなかった。そんな彼女が一番安心できる場所は、男とは確実に隔絶される女子トイレと年に何度かの訪れる旅館の浴場だという。だが、彼女の安息の地もそのうち奪われてしまうかもしれない。男性器をぶら下げた自認女性と脱衣所で遭遇したら、おそらく彼女のことだ、全身鳥肌を立てて失神してしまうことだろう。
 LGBTに寄り添うとする法律は、果たして彼女のような当事者に本当に寄り添っているのか、ははなはだ疑問だと言いたい。
 日本人は分(ぶん)をわきまえる民族だ。LGBTとかQなんて言葉がなかった時代の方が、ゲイもノンケも上手くやっていたような気がしてならない。
 
(初出)八重山日報

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