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『私は、戦前の日本人』ある元台湾人婦人のおはなし

(はじめに)これは、劉美香さんこと萩原美香さんの私家本『私の前世は日本人~台湾出身日本人妻の中国体験記~』(完全版)に、寄せた一文である。美香さんとの出会いやその人となりについては本文を読んでいただきたい。

巨人の来日

 僕は日記などほとんどつけたことのない人間だが、劉美香さんこと萩原美香さんと初めてお会いした日がいつなのかはすぐ答えられる。2007年(平成19年)の5月31日である。
 その日は、来日中の台湾の李登輝元総統が、念願であった奥の細道の旅の出発点として深川の芭蕉記念館を訪れた記念すべき日であった。かねがね敬愛してやまぬ、この亜洲の巨人にじかにお目にかかりたく僕も足を運んだのだった。
 記念館の入口は総統ご夫妻をお迎えする人で既にあふれていた。僕の見たところ、日本人6、留学生も含む在京の台湾人4といった割合だったと思う。みな、緑の台湾旗(青天白日旗にあらず)と日の丸の小旗を手にしている。遅れて来た僕の手にも一本の日の丸が手渡された。小旗の束をかかえ、配って歩いているその中年の女性が美香さんだった。
 それがきっかけとなって、しばしの間、雑談に花が咲く。美香さんは、高雄の出身で、日本人の御主人と結婚され現在は日本人であると自己紹介された。本書にある通りである。興味深いのは、美香さんは決してご自身のことを「日本国籍(をもってる)」という言い方をしないこと。「日本人」あるいは「日本人であり台湾人である」というのが美香さん流だ。そのことに強いこだわりというか、誇りを持っているようである。
 そうこうしているうちに、李総統を乗せた黒塗りの車が現れた。初夏の空の下、日の丸と緑の旗が一斉に振られ、その微風が興奮に火照った僕の頬を撫でていた。

芭蕉の像の前で。「深川に 芭蕉を慕ひ来 夏の夢」

 目の前に現れた180センチの立派な体躯は文字通り大人(たいじん)の風格であった。その静かなオーラにいささか臆していた僕の背中を押してくれたのは美香さんだった。僕はおずおずと総統の前に出るとぴょこんと頭を下げ、右手を差し出す。柔らかく大きな手が、わずか二年で一国の民主化という偉業をなしとけがた男の手が、僕の手を優しく包んだ。
 その日は、李登輝総統を先頭に僕らお迎え組一行が、大川(隅田川)のほとりを散歩するというサプライズもあった。下谷稲荷町の産である僕にとって隅田川は子供のころから馴染み深い川だが、その故郷の川を、李登輝総統と一緒に歩く、なんとも感慨深い。あとで知ったのだが、美香さんのお住まいも浅草にほと近いところにあるとのことで、これも不思議な縁を感じたものである。

日本人であり台湾人

 散策を終えたわれわれを待っていたのは、近所のおかみさんたちによる緑茶のサービスだった。お菓子工場の軒下に設えた白い長テーブルに並んだお茶の緑は今も記憶の中に涼しげだ。「元」がつけど、一国の元首と僕らが並んで同じお茶をいただく。これも下町らしい風景というのだろうか。さて、ここでわれらが美香さんである。お茶に喉を潤しながら、美香さんはお茶係りのおかみさんのひとりを捕まえて唐突にこんな問いかけをしたのである。
「日本のお茶も美味しいけれど、台湾のお茶もとても美味しいですよ。なぜだかわかりますか?」
 おかみさんが答えに窮していると、美香さんはまるで胸を張るように、こう言ったのだ。
「日本時代、日本人が一生懸命品種改良して、台湾の気候風土に合った最良のお茶を残してくれたからです」。
 決してお世辞でもリップ・サービスでもない。われわれ日本人が知らな過ぎるのである。美香さんの目には、日本人の謙遜や内省は確かに美徳に映りながらも、その内心では、日本人にはもっと自信を――、ありていにいえば、祖先の残した仕事に対しての畏敬と誇りをもってほしいという強い願いがあるのだ。また、それを伝えることが「日本人であり台湾人である」自分の使命であるかのように思っているふしがある。
 芭蕉記念館前での雑談で美香さんの口から、築地の勝鬨橋資料館を見学したときの話が出た。隅田川にかかる勝鬨橋は、昭和15年に完成した東洋一を誇る跳開橋で、開閉のメカニックも含めすべて日本の技術で作られているという。美香さんは、勝鬨橋をその一例に、戦前の日本人の技術力の高さとモノづくりに対する誠実さを、もてる日本語の語彙を駆使して、初対面の僕にレクシャーしてくれたのである。その口調は「堰を切ったかのように」という表現がぴったりだった。

 多桑から受け継ぐもの

 美香さんのそういった日本人観は、ご両親の多分の影響によるものであることはすぐに理解できた。美香さんのご両親は李登輝総統と同年代、いわゆる多桑世代である。多桑(トウサン)とは日本語の「父さん」がそのまま台湾語に転用された言葉で、多桑世代といえば、日本統治時代に教育を受け、日本語と日本文化に親しむ本省人を指す。呉念眞監督の映画『多桑』(1994)で、台湾好きの日本人にも広く知られるようになった。またこの世代は、戦後日本と入れ替わりにやってきた蒋介石の中国民党政府による白色テロの恐怖を骨身に知っている人たちでもあった。彼らは長く言論を封殺され、公に日本語を話すこともままならなかったのだ。
 90年に、李登輝氏が本省人として初めて総統に就任したのをきっかけとして、多桑世代の口から、あるいは筆から、まさしく「堰を切ったかのように」日本と日本人に対する熱い思いが発せられるようになったのである。蔡焜燦氏、許国雄氏、鄭春河氏、楊素秋氏……それら、尊敬すべき多桑たちが書かれたいくたの本を読み、僕はひとりの日本人として感涙し、台湾に対して言葉に表せぬ親しみと感謝の念を覚えていた。李登輝総統のお迎えに参上つかまつったのも、僕なりの感謝の表現でもあったのだ。そして、美香さんとの出会いも無数の名も知らぬ多桑のお導きだと思っている。
 その初対面の場で、美香さんから一冊の小冊子をいただいた。『私の前世は日本人?』と題したその冊子は、美香さんは、ご主人の仕事の関係で大陸に渡り、北京と上海での生活を中心に、折々に思ったこと、感じたことをまとめたもので、いうまでもなく、本書の母体となったものである。美香さんは、ご自分の本を当時流行りの言葉で「私にとっての"自分探し"」と僕に説明してくれた。

 いただいた本は、帰りの地下鉄で一気に読んだ。80年代から90年代の、改革開放に躍る中国の光景と人民のエネルギッシュなまでの拝金主義ぶりがみごとに活写されている。台湾に生まれ、日本人に嫁ぎ、中国で暮らす美香さんの、三つの文化の相克に時に戸惑いながらも、真正面からぶつかっている姿に素直に感動した。美香さんは質問が好きである。わからないこと、疑問に思ったことは、それと思う人にストレートに聞いてみる。あるいは自分の目で、足で、調べる。その旺盛な好奇心とバイタリティーには僕も大きな刺激を受けたものだ。
 いつか、この小冊子をまとめ直して商業出版社から出版したいと思い、美香さんにもそう伝えた。未だその約束が果たせなくて心苦しい限りである。その代り、当時僕が関わっていた『撃論』というムック・シリーズに何度かご登場を願った。「日本人であり台湾人」でもある美香さんの視点はユニークかつ新鮮であり、ときに日本人としてグサリと来ることもあった。改定版である本書には、その『撃論』での寄稿も収録されるということで嬉しい。

私は「戦前の日本人」 

そんな美香さんだが、面と向かってこんなことを言われたこともある。
「私が親から聞いていた日本人はいなかった」。
 美香さんが実生活の中で知る日本人は、ごく一部をのぞけば、国政に興味を持たず国を愛することも知らない、興味といえばブランド品にクルマといった、まさしくバブルの申し子たちだった。とりわけ、戦後50年にしてようやく民主化と普通選挙を「勝ち取った」台湾人の目からすれば、日本の若者の政治への無関心は信じがたいことのようだ。本にも書いてあるとおり、美香さんは国政、地方関わらず選挙へは必ず足を運ぶという。選ぶべき候補者がいないときは白紙を投じている。それが「日本人」としての義務であり責任であると思っているからだ。
 実際、カルチャー・ギャップに悩み神経を病んだことこともあったし、日本がいやになりかけたこともあったようだ。それでも美香さんは日本を終の棲家と考え、今も日本人として日本人の中で暮らしている。
 改めて本書を読み返すと、「日本人であり台湾人」という言葉とは別に「私は戦前の日本人だから」というフレーズも多く散見するのだ。この部分は太字にしたいほど力強い響きがある。「親から聞いていた日本人」がどのような日本人を指すのか、今一度肝に銘じ考えてみたいと思う。
 戦前をすべて悪と教えられ、戦前を否定することから始まった戦後日本。もしかしたら、日本人の精神的血統は一度そこ(敗戦)で断然してしまい、むしろ戦前の日本人のDNAを継いでいるのは台湾の多桑たちなのかもしれない。
 その戦後派日本人も平成の御代で3世の時代を迎えようとしている。彼らにこそ、ぜひ本書を読んでいもらいたいと節に思う。 

初出・萩原美香著『私の前世は日本人~台湾出身日本人妻の中国体験記~』


(追記)映画『多桑』は、侯孝賢監督の名作『非情城市』『戯夢人生』(ともに日本に関わりがある作品)の脚本家である呉念眞氏の初監督作品である。主人公のトウサン(名前はセガ)は、やはりというか、呉監督の父上がモデルだという。
 自分の子供にトウサンと呼ばせ、歳を聞かれると「昭和四年生まれ」と答える。毎朝、ラジオでNHKのニュースを聴くのが趣味で、そのラジオ(中国製)が壊れると「やっぱり日本製じゃないとダメだ」ともらす。「バカヤロウ」が口癖で、家族にはガミガミいうが、決して愚痴は吐かず、面倒見もいい。そして、日本に行き富士山と皇居を見るのが夢。――こんな多桑が台湾にはいっぱいいたのだろうなと思うと、日本人として自然と目頭が熱くなってくる。彼らを決して忘れてはいけない、そう思った。
 それから、頑固者の多桑を見守る息子の目の優しさ、映像に広がる台湾の金鉱町の風景の美しさ……。決して押しつけがましくなく、淡々とした作風だけによけいに心に沁みる。
『多桑』日本盤は松竹からVHSが発売されて以来、未だDVD化されていない。この映画こそ、多くの日本人に観てもらいたいのだが。多桑世代の多くが鬼籍に入られている今ならなおさらである。

日本盤の惹句は「父さん、なぜ、そんなに日本が好きなのでしか」。多桑のネイティブ・ランゲージは台湾語と日本語。国民党政府になって、北京語が国語となった。「”あいうえお”ならわかるが、なぜ俺が北京語喋らなきゃいけないんだ」というセリフもでてくる。


 美香さんは僕よりも10歳ほど年上、今年で60代後半になる。久しくお会いしていないが、毎年年賀状で近況を交換している。今は、お孫さんの成長に目を細める日々のようだ。上の李登輝総統のお迎えの動画で、ちらりと聞こえる女性の声が美香さんである(といってもわからないかw)。僕(但馬)も写っていマス。

美香さんに、多桑のように台湾語になった日本語をいくつか教えてもらった。たとえば、卡 桑(かあさん)、歐吉桑(おじさん)、歐巴桑(おばさん)、阿娜達(あなた)など。
また、90年代に入って、若者文化として、新しい日本語由来の台湾語も増えてきたという。最後にクイズ。次の日製台湾語はなんと読みますか?

①卡哇伊 ②卡拉 OK ③那波里緬 ④女僕喫茶 ⑤多啦A夢 ⑥崖上の波妞

(答え)①かわいい ②カラオケ ③ナポリタン ④メイドきっさ ⑤どらえもん ⑥崖の上のポニョ※ひらがなの「の」は台湾ではすっかり定着していていて、そのまま使えるらしい。


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