キラー被害者・韓国
千年恨発言の意味
「加害者と被害者の立場は千年の歴史が流れても変わらない」
朴槿恵大統領が2013年の三一節の記念式典で行った演説での言葉です。この発言、言い換えるなら、韓国は日本を半永久的に赦すことがないといっているとも取れます。
日本人は、他人、とりわけ韓国人から「われわれは被害者だ。被害者が謝れといっているのだから謝れ」などといわれると必要以上に萎縮してしまう傾向がありますが、さすがに朴大統領のこの発言には、それってちょっとヘンなのじゃないのと多くの日本人が、気づき始めたようです。
韓国人は被害者と加害者という関係に強い執着がありますが、それを額面どおりの言葉と受け取るのもナイーブに過ぎるというものです。彼らのいう、被害者と加害者という語には、儒教的な上下関係の巧みなワーディング(言い回し)があると思って差し支えありません。
「韓国は(文化的に)兄であり、日本は弟」というロジックと根本はひとつといえます。加害者・日本は被害者である韓国にとって道徳的下位にあるというのが彼らの暗黙の主張なのです。ついでにいえば、被害者は絶対的な善であり加害者は絶対的な悪ということになります。朴大統領の千年発言は、まさにこの関係を永遠に固定化するという宣言に他なりません。
もはや、この先日本がどのように謝罪しようと、賠償金(?)を払おうと、関係の再構築は不可能だということを大韓民国大統領自ら裏書したことになるわけですから、むしろ、この発言を受けて日本は気が楽になったことでしょう。ならば、必要以上の贖罪感など捨ておけ、そう思った日本人が大勢であったと思います。
面白いのは、通常、「被害者」といえば弱者のイメージなのですが、韓国でいう「被害者」は強者であり、「加害者」に対しては絶対の正義をもち、ある種の特権を有するべき存在であるということです。
いい例が、セウォル号沈没事故(2014年4月)で亡くなった修学旅行生の遺族とその支援者たちです。彼らは確かに「被害者」であり、何の落ち度もなくわが子を失ったということに関して同情を禁じ得ませんが、救出された生徒の親に「なぜお宅の子だけ助かった」と食ってかかってみたり、「特別法」(被害生徒である2年生はおろか3年生たちにも大学特例入学の機会を与えるなど仰天な内容も含まれています)制定を求めて断食闘争を行ったり、無関係の第三国(米英)に新聞広告やデモでアピールしたり、といった、およそ日本人の感覚からすれば常軌を逸した行動の数々に、思わず「流した涙を返してくれ」と言いたくなるのも正直なところです。
とりわけ、日本に対して「被害者」であることは、圧倒的優位、強者の立場にあるということを意味します。ここでもCK(チキン・コリア)とSK(ストロング・コリア)が微妙に倒錯しているのです。つまり、被害者という弱者(CK)を強調することで、ドスを利かし(SK)、要求を正当化させるという彼らなりの戦略と見ていいと思います。それゆえに彼らは、絶対に「被害者」という看板を下ろすことはありません。
「被害者」という絶対的位置
ためしに、韓国マスコミの対日報道記事の見出しから「被害者」というキーワードを拾ってみました。
【八十歳になった日王、記者会見で被害国に謝罪無し~被害国ネチズン、『厚顔無恥』な姿勢非難】(「ヘラルド経済」2013年12月26日付※天皇誕生日のお言葉の中の「先の大戦で国民の苦渋」を慮られた発言を受け、被害国に対する反省の弁がないと非難)
【歴史的被害者である韓国を時代錯誤的発想に捕われた日本と同類と見るのは適切ではない】(「コリアデイリー」2014年2月12日付※「韓国大統領と日本総理が各々歴史教科書の内容修正を試みている」としたニューヨークタイムズの社説に対する韓国外交部の反論として)
【被害者は韓国なのに、なぜ嫌韓デモを受けなければならないのか…~日本で嫌韓デモに反対するデモ】(「聯合ニュース」2014年07月23日付※いわゆるヘイト・デモとカウンターについて)
【安倍首相は「戦争加害国」から「拉致被害国」へイメージを変えようとしている】(「朝鮮日報」2014年3月17日※拉致問題の取り組みに熱心な安倍首相に対して)
なるほど、被害者という言葉も韓国人が使うとどこか上から目線で高圧的な響きがあります。被害者=弱者=可哀そうな人、という日本人一般の貧困なイメージを一蹴してくれるに充分です。
最近、私は、韓国が対日批判で好んで使いう「被害者」という言葉に「鉄の爪」や「人間発電所」といった往年のプロレスラーのニックネームと同質の響きを感じずにはいられません。グレート被害者、ストロング被害者、キラー被害者です。
地獄の料理人ハンス・シュミット、黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー、生傷男ディック・ザ・ブルーザー、放浪の殺し屋ジプシー・ジョー……思えば、昭和のプロレスラーたちのニックネームはみな、独特の凄みと風格をもっていました。子供の頃、少年雑誌のプロレス特集を読み漁りながら、まだ見ぬ強豪レスラーの活躍に思いをはせたという読者も少なからずいるでしょう。
何よりも少年ファンの胸を躍らせたのは、悪役レスラーたちの虚実ないまぜの恐怖のプロフィールです。ダボダボの囚人服姿の囚人仮面ザ・コンビクトは「重要犯罪人ばかりが収容されているNYのシンシン刑務所から脱獄してきた」という触れ込みでしたし、キューバン・アサシンなる三流レスラーは「カストロ直属の暗殺部隊出身」を売りにしていました。青銅の爪キラー・カール・クラップは、リング上のナチ式敬礼のパフォーマンスで観客の憎悪を煽る典型的なナチ・ギミック・ヒールでしたが、彼自身は本名ジョージ・モンバーグというユダヤ系オランダ人というところになんともいえぬ悲哀を感じさせます(○○バーグというのはユダヤ系に多い名前です。例・ギンズバーグ、スピルバーグ、ザッカーバーグ)。
現在、これらのプロレス・ファンタジーを鼻でせせら笑う自称インテリたちも、「日本軍のジープにさらわれ、クリスマス休暇には50人の日本兵の相手をさせられた元慰安婦」や「14歳で早稲田大学医学部(当時も現在も同大に医学部はない)を卒業し満州の731部隊で人体実験に従事していた元軍医」といった国籍不明謎の怪レスラーが跋扈する”反日プロレス”のよきオーディエンスだったりするのがですから、何をかいわんやでありましょう。東南アジアの国々から「被害者」をスカウトして、さまざまな経歴をお色直しさせリングに挙げる某弁護士などの輩はさしずめ、虎の穴の悪のマネージャーといったところといえばわかりやすいかと思います。
強制連行、性奴隷、七奪、人類史上類例のない過酷な植民地支配……言葉のサーカスに躍らされるほどに、われわれはウブな少年である必要はないのです。
『火垂るの墓』が極右思想映画?
高畑勲監督のジブリ・アニメ『火垂るの墓』(1988年)(原作・野坂昭如)といえば、大戦末期の神戸を舞台に、親を亡くした兄と幼い妹が懸命に生きる姿を通して、戦争の悲惨さと人の世の無情を描いた感動作として知られ、日本はいうに及ばず世界中のアニメファンの涙を絞り大ヒットを記録しました。なんと、イギリスで実写版リメイクも決定しているといるそうです。国籍、宗教、思想の左右を超えて愛された『火垂るの墓』ですが、自由主義諸国で唯一、一般公開にこぎつけるまで26年かかった国があります。他ならぬ韓国です。
《極右主義論議で国内封切りに難航してきた日本アニメーション『火垂るの墓』が来る6月19日、国内で正式に封切りする。(中略)
『火垂るの墓』は、第2次世界大戦当時、爆撃で両親と家を失った14歳の兄清太と4歳の妹節子の生存のための壮絶な死闘を描いた作品だ。戦争がもたらす残酷さと大人の集団利己主義の間で踏みにじられざるを得なかった幼い兄と妹の話を描いたが、戦争の挑発国である日本の自国民を被害者として描写していて、極右主義作品という論議を起こしてきた。 国内観客から「加害者である日本を被害者として描いた」という指摘に高畑勲監督は国内のある報道機関とのインタビューを通じて「客観的に描いただけで、日本を決して正当化させようとしたのではない。原因から見直さなければ戦争に反対することはできない」として反戦映画であることを強調した。》(「ジョイニュース24」2014年5月15日付)
どのような環境で鑑賞したかは知りませんが、『火垂るの墓』に極右主義映画という評価を下せるのは世界中探しても韓国人ぐらいのものと断言していいと思います。
「加害者である日本を被害者として描いた」という見解にも二の句を奪われますが、実はここに、韓国人の「被害者×加害者」論の本質がよく現れているといえます。
李氏朝鮮は過酷な階級社会でありましたが、韓国人のいう、被害者、加害者を階級に喩えるとよくわかります。被害者階級と加害者階級です。道徳的下位にある加害者階級が上位の被害者階級のフリをする、あるいは同じ権利をよこせといっている、なんと不埒なことか、と彼らは憤っているのに過ぎません。
いわゆる”お花畑”と呼ばれる空想的平和主義者の中には、韓国に思い入れのある人も多いようですが、彼らの掲げる理念や理想主義と韓国の主張は基本的な部分で相容れないものであることをいい加減に気づくべきです。
中学時代、ある年長のお花畑さんにこう言われたことがあります。
「戦争に、勝者も敗者も、加害者も被害者もない。すべての人が不幸になるのが戦争だ」。
なるほど、これはこれで論としては通っています。ところが、韓国の言い分はこれをまったく否定するものです。韓国からすれば、戦争には(というよりも世の中には)、加害者と被害者の二者しか存在せず、「被害者も加害者も同じ」という論理は、階級を否定する危険思想に他なりません。邪悪な日本人だからこそ思い浮かぶ破廉恥極まりない発想ということになります。
『火垂るの墓』が極右思想アニメなら、東京大空襲の語り部として講演活動や執筆活動などで知られる”根岸のおかみさん"こと海老名香葉子女史(先代・林家三平夫人)もまた危険な極右思想の持ち主ということになります。海老名女史は日本共産党の支持者だそうですが、共産党もそのような人物の支持を受けていることを真摯に受け止めるべきでしょう。少なくとも赤旗は、在特会のメンバーと写真を撮った自民党の議員を責められたものではありません(もちろん冗談です)。
カトリーヌ・ドヌーヴ主演のミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(64)は、戦争に引き裂かれる恋人たちを描いた切ないラブストーリーですが、この作品で語られる戦争はアルジェリア独立戦争でした。韓国人の立場からすれば、当然、植民地アルジェリア=正義、フランス=悪ということになります。つまり、『シェルブールの雨傘』は「加害者フランスを被害者に描いた」極右主義映画だったのです。韓国国内での上映にあたってはさぞかし論議が起こったことでしょうね。
「被害者になれる」という発想
在日文化人の辛淑玉氏の次の発言も、韓国人の「加害者×被害者」観を知るよい手引きといえます。
《多くの日本人が北朝鮮による拉致事件に政治的に飛びついたのは、長年、国家と一体となった加害者として糾弾されてきたことに疲れたからだと私は見ています。初めて堂々と「被害者になれる」チャンスがめぐってきたのがあの拉致事件でした。そして被害者に感情移入することで心のバランスを保っているように見えました。》(東京新聞2009年9月20日付)
政治的に飛びついたとは、とは何を意味するのかよくわかりません。拉致問題を政治的に利用するのであれば、政府としてもっと早くから利用していたのではないでしょうか。そもそも「被害者になれる」という言葉自体、実に新鮮といわざるをえません。「被害者」になって「加害者」に威張りたいなどという発想は、日本ではプロの当たり屋ぐらいにしかないものです。
拉致問題の解決どころか、その周知さえ遅らせてきたのが、国内外の韓国朝鮮勢力の被害者絶対論だったのです。拉致問題がまだ拉致疑惑といわていた時代、家族会や救う会による地道な活動を、「差別だ」「右翼の捏造だ」と騒ぎ立て妨害し、これを報道しようとしていたマスメディアを萎縮させてきたのは、総連や民潭のキラー被害者やアブドーラ・ザ被害者、あるいは旧社会党などの同調者でした。
そして、「加害者」である北朝鮮が「被害者」である日本に「(拉致被害者の)調査をしてやるからカネよこせ」とゆすりたかりのヤクザ行為を働いているというのが現状ではありませんか。
辛氏の言葉は以下に続きます。
《もしこれが、拉致も強制連行もともに解決しようとうスタンスであったなら、歴史は大きく動いたことでしょう。》
ここでいう強制連行とは、いわゆる慰安婦問題のことです。ご承知のとおり、日本軍の慰安婦強制連行を証明するものは一切見つかっていません。あるのは元慰安婦の証言だけですが、証言には裏づけが必要です。裏づけのない証言は証拠とはいえません。証拠がない以上、現時点で、それは事実ではなかったというしかないのです。
「あだしが証拠だ」の凄み
「強制連行を示す証拠はない」日本の政治家がそのような発言をすると、慰安婦のおばあさんが市民団体主催の記者会見などで「証拠はあだしだよー」などと泣き叫んで、発言を撤回させようとするというパターンがこれまでよくありました。しかし、これも妙な話なのです。
それにつけてちょっと思い出す光景があります。
私も昔はプロレスラーのトークショーなどにもよく行きました。昭和時代は、いわゆる暗黙の了解(ケーフェイ)の部分について触れてはいけないという不文律は根強かったわけですが、それでも、やはりというか、レスラーに向かって、得意げにその手の質問をする無粋なファンもいたものです。「あのときの技、ビデオで見直しても当たってないように見えるのですが」「場外でモゾモゾやってたあと決まって流血しているのはなぜですか」。こういうときのレスラーの反応は判で押したように決まっています。「おい、ごらあ」「プロレスなめんなよ」と壇上で凄んでみせ、あるいは「ちょっと来い」などといって質問者を呼びよせ軽くヘッドロックをかけて”レスラーの実力”を体で教えるというものです。そんなとき、他の観客はわけもわからないまま、とりあえず喝采を上げるというのもいつものパターンでした。どう考えても、いや、考えなくても、質問者の質問にレスラーがなんら答えていないのは確かですが、不思議とこれはこれでその場は収まるのです。
私は、レスラーの「おい、ごらあ」も元慰安婦の「証拠はあだしだよー」も問答無用という点で同質のものであると考えます。プロレスラーにとってリング上のファンタジーを守ることも仕事のうちならば、同様に、元慰安婦のおばあさんたちにとっても「被害者」というファンタジーを維持することは大切な仕事なのです。
強制連行の虚偽性についてはとりあえず置くとして、その慰安婦問題と拉致問題を同列視し、いっしょに解決すべきだというのが辛氏の主張ですが、これはおかしな論理といえます。ふたつはまったく別の問題です。これをセットに考えることは、それぞれの問題が干渉し合う結果を招きます。
そもそもVAWW-NETのような慰安婦問題に熱心な団体が、拉致問題に関して北朝鮮政府に対する何らかの働きかけがあったでしょうか。VAWW―NETのように背景の怪しい団体は論外としても、日本は慰安婦問題に関して女性基金を作ったり、官民上げてアプローチしてきました。一方、民団や朝鮮総連、および在日の民間団体が、拉致問題に関してはだんまりの様子です。
北朝鮮の金正日総書記が日本人拉致を認めた直後、リベラル系の識者たちからの「拉致問題と慰安婦問題など日韓間の過去の問題は別物。拉致問題があったからといてそれらの問題を相殺するべきではない」という論調が目立ちましたが、拉致問題と慰安婦問題を都合よく同列化し、本来関係のない慰安婦問題を持ち出し国民の間で広がりつつある拉致問題への関心を相殺、中和させようとしているのは、あなたたちだろと言いたくもなりました。
北朝鮮工作員を動かした「母の慈愛」
元北朝鮮の工作員で韓国への亡命者だった安明進氏(アン・ミョンジン)という人物を読者は覚えてらっしゃるかと思います。覚醒剤所持で逮捕という不祥事を起こして以来、日本のメディアとも疎遠となってしましたが、彼が北朝鮮の日本人拉致に関する多くの証言をもたらしてくれたのもまぎれもない事実です。1997年(平成9年)3月、安氏は家族会の横田滋・早紀江さん夫妻と最初の面会を果たしますが、実はこのとき安氏は最後まで対面には及び腰だったそうです。朝鮮の工作機関の人間であり、いわば拉致問題の「加害者」にあたる自分がどの面を下げて「被害者」家族に会えばいいのかと彼なりに悩んだといいます。対面の席で、早紀江さんから「あなたも家族を北に残したままでお辛いでしょうに」と声をかけられた安氏はその場で号泣したそうです。そして拉致事件の解決のために、あらゆる協力を惜しまないと誓ったのでした。
横田夫人のこの言葉に、被害者が上、加害者が下だの、まして「被害者になれる」などという下衆な感情は一片もありません。人の母としての慈愛があるだけです。そして、拉致問題を見守るすべての国民の心根もまたそうであると信じています。
・・・・・・・・
初出・『韓国呪術と反日』(青林堂) ※単行本収録は短縮版。本稿が完全版初公開。
よろしければご支援お願いいたします!今後の創作活動の励みになります。どうかよろしくお願い申し上げます。