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僕が語っておきたい下北沢②~蜂屋の思い出

 昭和の下北沢といえば、やはり蜂屋を語らないわけにはいかない。
蜂屋は、一番街商店街の入り口、踏切を渡ってすぐにあったラーメン屋だ。当時、どこにでもあったような、薄汚れて小じんまりとした(近年の言葉でいうところの)町中華であったが、ここは昼どきになるといつも客で満杯なのである。
 人気の秘密は、値段の安さにある。ラーメン150円、餃子100円、チャーハン、カレーライス、玉丼、野菜いためが200円、カツ丼が300円で、学食よりも安かった。一番高いのはチャーシューワンタンメンの350円だが、それを頼むのは野暮とされていた。その代わりに、みなだいたい、2品以上を頼む。たとえば、ラーメン+カレー(350円)、餃子+玉子スープ、ライス(290円)といった感じ。そのときの気分やセンスで組合せが決まるのだが、隣のテーブルに座ったヤツのチョイスを見て、「おヌシ、なかなかやるな」と内心うなったりする、まあそんな店である。味もそこそこ。ちゃんとナルトや海苔も入っていて、少なくとも学食のラーメンよりも本格的だった。
小劇場の役者とか売れないミュージシャンとか、僕のような三文文士もそうだけど、食えない連中が多く住む下北沢だけに、蜂屋で命をつないでいたという思い出話もよく聞く。あのころのシモキタは貧乏人にやさしい街だった。鋲つき革ジャン、髪の毛ピンピンのパンクスと買い物のおばちゃんがすれ違うような街でもあった。
 僕のアパートはたまり場だったので、酒盛りのついでに泊まっていった仲間と繰り出して蜂屋で昼飯を食うなんてこともよくあったし、反対に、一人で飯を食っていると、知っている顔に声をかけられ、食後は喫茶店でダベり、気が付いたら夕方で、そのまま酒飲みに突入ということも珍しくなかった。
そういえば、岡田有希子の自殺は蜂屋のテレビで知った。あのときは一瞬箸が止まったものだ。ネットで調べたら、86年4月8日と出てきた。
 蜂屋のことをブログやSNSで書く人もポチポチいるようでうれしくもある。みんな僕と同年代か、若くても50代前半であろう。誰かが、「愛想はないが愛のある店」と書いていたが、まさに!
 天パーに白髪の混じった店主は、うるさ型のジャズメンといった風情でサックスが似合そうだった。厨房はほとんど彼が仕切っていて、あとはお運びさんだった。蜂屋の番頭的な存在だったのが、ヤツの兄ちゃん。といっても本名は知らない。プロレスラーの谷津嘉章に似ているから、僕らが勝手にそう呼んでいただけである。彼も愛想の欠片もない人だった。うっかり食べた食器を重ねると「器は重ねないで」と叱られる。どうやら器の種類で料理の値段が決まっているらしく、重ねると計算しにくいからという理由のようだった。兄ちゃんは電卓も使わずテーブルの上の器を見て瞬時に合計金額を計算し、それはぴたりと合っていた。今や注文も会計もタッチパネルひとつがやってくれるが、逆になんとももどかしい限りである。
他に、おばちゃんとお婆さんが日替わりでお運びをやっていたが、家族経営に見えながら、血縁関係は一人もいかなったという。
 その蜂屋が店を閉めたのは、1989年(平成元年)の消費税導入に合わせてのものだった。まさに、昭和とともに蜂屋の歴史は終わったことになる。そして、僕にとっては、シモキタの最初の灯が消えた瞬間でもあった。
 今もときどき、蜂屋のラーメンが夢に出てくる。


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