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日立製作所を辞めた理由

2017年、私は新卒で日立製作所に入社しました。あれからもう7年が経ちます。当時のことを思い出すと、懐かしさと同時に初心な(?)思いが蘇りますw今回は、そんな日立製作所を辞めるに至った理由について、詳細にお話ししていきたいと思います。

日立を懐かしむワイ

日立製作所ってどんな会社?

日立製作所と聞くと、「社会イノベーションの日立」という言葉を思い浮かべるかもしれません。世界不思議発見を見てるとよくCM流れますよね。
大阪・通天閣のネオンサインも有名です。

 なぜ通天閣に日立?当時建設中の通天閣に出資したのが日立だったそう、Panasonicは、、、

社会インフラを中心に事業を展開し、「社会イノベーション事業」を軸にした総合電気機器メーカーです。ちなみに社会イノベーション事業は日立がそう打ち出してる事業であり、社会イノベーションって何?は深く考えない方がいいかもしれません、日立社員を除いては。
具体的には、鉄道、エネルギー、国防、ヘルスケア、情報通信といった多岐にわたる分野での事業活動を行っています。
いわゆるコングロマリットというやつですね。競合にはGEやシーメンスなどのグローバル企業も存在します。

近年ではSI(システムインテグレーション)事業にも力を入れ、ITサービスの提供やサーバー製造なども手掛けています。これは、日立に限らず大手メーカーの多くが取り組む方向性であり、富士通・NEC・東芝・パナソニックなどと同様メーカー系SIerの顔も持ちます。私が入ったのもSI事業の部門でした。SE志望だったので。

社員数は、本社だけでも約3万人、国内外のグループ企業全体では約30万人にも上ります。トヨタの36万人に次ぐ規模で、特に海外売上が半分以上を占める多国籍企業としても知られています。こうしたスケール感は、まさに日本が誇る大企業の象徴です。

日立のことをより深く知りたい方には、次の2冊をお勧めします。「ザ・ラストマン」は、2008年のリーマンショックで8,000億円の赤字からV字回復を遂げた日立の奮闘記で、当時の社長・川村氏の自伝的な内容です。一方、「日立の壁」は、V字回復後の新たな課題に立ち向かう現会長・東原氏の経営哲学を描いた本で、日立の現在と未来を知る上で役立つ一冊です。どちらも勉強になる内容ですので、ぜひ読んでみてください。

日立に入社した理由

日立製作所に入社した背景には、私自身の生まれ育った茨城と大学時代の経験が大きく関係しています。茨城大学工学部に通ってた私は、キャンパスが日立市にあったこともあり、日立製作所が常に身近な存在でした。
大学では、日立に関連する企業説明会が頻繁に開催されており、学生たちにとって人気の就職先でした。

HITACHI is 神企業✨

私の専攻は情報工学科で、暗号技術に関する研究を行っていたのですが、日立の研究所が提携していたのですよね。そのため、大学在学中にインターンシップにも参加する機会があり、日立の社風や業務内容に親しみを感じるようになりました。
ちなみにインターン先は茨城県ひたちなか市の勝田駅近くの日立研究所でした。当時流行り出したばかりのDeeplearningを使ったプログラミングを経験させていただきましたね。

そして就活が始まったときに日立からの推薦を得ることができました。推薦枠は2名でしたが、10人が応募するという競争率の中で、無事に推薦を受けることができたのは嬉しい出来事でした。学内選考では日立のOB社員(リクルーターと呼ばれる)が面接を行い、大学と企業のつながりを感じる場面でもありました。
茨城大学レベルの学歴では一般入社は厳しいため、推薦というルートは非常に大きな意味を持ちます。
こうして振り返ると、日立製作所に入社することは「入るべくして入った」という感じですw
ちなみに日立製作所に入ることは茨城大学生にとって英雄的な所業ですw親も親戚も大喜びですw

日立の内定が出た瞬間が人生のピークだったかもしれないw

日立での仕事

日立製作所での私のキャリアは、システムエンジニアから始まりました。最初の2年間は、設計書作成、プログラミング、テストなど、典型的なSIerの業務に従事していました。日々の仕事は技術的な面もあれば、設計書の修正やドキュメント管理など、細かい作業も多かったです。こうした細かなタスクは、1〜2年目のSEとしては当たり前のものであり、若手にとっての通過儀礼とも言えます。エンジニアとしての基礎が身につきましたね。
大学でもプログラミングはやってたのですが我流でやってたが故にめちゃくちゃコードレビューでダメ出しされましたw先輩に「こんなコード見たことないよ太田くん」と言われたのは今となっては良い思い出ですw

その後の2年間は、出向先の企業でシステム部門の一員として働きました。常駐とは異なり、完全にその企業の社員として仕事をするため、責任感も高まりました。ちょうどその頃半沢直樹のドラマに憧れていた当時の私にとって、この出向は非常に刺激的な経験でしたw

プロジェクト管理や業務部門との要件定義など、コンサルタントに近い役割も担うことができ、ITコンサルタントやPMOとしてのキャリアを意識し始めるきっかけとなりました。

 出向先の東証で為替と向き合う日々、、、というわけではなく、PMO的な仕事をしてました

日立を辞めた理由

日立を辞めた理由は一言では表現しきれませんが、最も大きな要因は「ITコンサルタントとしてのキャリアに挑戦したかった」という思いでした。日立のような元請けSIerのシステムエンジニアとしての仕事と、コンサルファームでのITコンサルタントの仕事は業務内容としては似ている部分が多いです。しかし、単価には大きな違いがあります。
日系SIerでは月100万円程度の単価であっても、コンサルファームでは200万円にも達することがあります。この単価の差が何に起因するのか、自分の中で大きな疑問が生まれました。果たして、スキルや能力によるものなのか、それとも企業ブランドによるものなのか――それを確かめるために、アクセンチュアへの転職を決意しました。

もちろん、転職には他にも理由があります。年収が約10%上がることとか転職経験を積むことで市場価値を高められること、なども動機の一つでした。複数の企業で実績を積むことで、自身の柔軟性や適応力が評価されやすくなると考えてました。(一方で、転職が多すぎることも採用側からするとリスクとなるため、転職しすぎは注意が必要です)

辞めたことに後悔はあるか?

日立製作所を辞めたことに対して、後悔が全くないわけではありません。時折、日立のニュースを見たり、地元・茨城に帰ったりするたびに、日立の存在感や影響力を再認識します。また、頑張っている元同期の話を聞くたびに、日立の良さを改めて感じることもあります。
新卒で右も左も分からなかった自分を受け入れて育ててくれた日立、、、親みたいに感じています。。。

日立にノスタルジーを感じてしまうくらいには後悔してます

まとめ

今回、私が日立製作所を辞めるに至った経緯についてお話ししました。エンジニアとしてのキャリアに悩んでいる方、転職やフリーランス独立を考えている方に向けて、私の経験が少しでも参考になれば幸いです。どんな質問でもお気軽にコメントでお寄せください。

参考動画