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第12話ロサンゼルス・クラブ 長島亘と生谷和久

ロサンゼルス・クラブ のオープンから間もなくすると、「トニー・ホ ーク」のボードを持ったやせっぽちでつり目の中学を出たての少年が通って来るようになった。

少年の名は長島亘。この日から「ロサンゼルス・クラブ 三軒茶屋店」がクローズするまでの一年間、ほとんど毎日ランプ・アリーナに通うようになる中で、自然と生谷さんとの間に師弟関係が生まれていった。

スケートボードを始めたばかりでまったくの白紙状態の亘に、生谷さんはハーフ・ボウルでフェイキーやターンなどの基礎から教えなければならなかったが、幸い亘には小学生時代からの体操の下地があった。自分のイメージ通りに体を操る事に長けていて、呑み込みの良さと上達の速さは常人の域をはるかに超えていた。

上:生谷さん 下:筆者

そんな亘ではあったが生谷さんにはどうしても納得がいかない事があった。やせてやたらと手足が長く、ガニ股で「カッコ悪い」というのだ。生谷さんはテクニックを教えるのと同時に、ことあるごとに亘に対して「スピードとスタイル」の追求を唱え、時には「カッコ悪いくらいなら滑らないほうがいい」ぐらいのことを言って亘 の意識を「スタイル」へと向けさせていった。

やがて高校に行かなくなってしまった亘は、毎日熱心に「L.A.C」に通って来るのでコース・フィーを免除されるようになり、代わりにコース内の清掃と破損部分のメンテナンスを請け負った。

この頃になると兄貴分でボスのアキさんを筆頭に生谷さん、当時ストーミーのライダーだった川村諭史、江川芳文、そして亘と俺は「L.A.C. LOCALS」というひとつのファミリーを形成するようになっていた。そんな環境の中で亘は日に日にスキルアップしていき、体操歴を生かしていつのまにかハーフ・ボウルでハンド・プラントも出来るようになっていた。

長島 亘

上達の速さを見ていてそのスケート・センスに感心してはいたが個人的に「コイツ、タダモンじゃねえな」と思い始めたのは、88年に入って「ボーンズ・ブリゲード」 が来日した時に「ロサンゼルス・クラブ 三軒茶屋店」にも遊びに来て、スティーブ・キャバレロがエントランスから走って来て途中からボードに飛び乗り(助走が足りなかった為) ハーフ・ボウルでジャンプ・ランプを飛ぶようにしてジュードーエアーの要領でプラットホームの奥の壁を蹴ってリップに戻るのを見て驚かされたのだが、その二日後に亘が見よう見まねで何度かトライしてメイクしてしまった頃からだ。

生谷さんから毎日耳にタコが出来るほど、「スタイル、スタイル」と手の指から足の爪先に至るまで難癖をつけられ続けてきた亘はやがて技術とスタイルがシンクロし始めた。クリスチャン・ホソイが来日時にプライベートで「ロサンゼルス・クラブ」で滑った時も、クリスチャンがロックンロールをする時に後ろ足の甲をテールに押し付けるようにするのを見ていてカッコイイと思った亘は、それ以後インターフ ェイキーをする時でさえそれを真似るようになった。

ある日亘は、ランページで一人でラップオーバー・グラインダー(スミス・グラインド)を練習している時にもこの後ろ足のスタイルを取り入れ、自分で納得がいくまでやってから、ショップにいる生谷さんを呼んで実演して見せた。 そして生谷さんからたった一言、「まだまだやな」日々これの繰り返しだった。

スケートボーディングに対してストイックな生谷さんはタバコを止めてスポーツジムに通い始めた。今から思えば当時まだ26歳だったが、以後のスケート・ライフを見据えて肉体作りに励もうというのだ。後に、酒飲みで自堕落な亘と俺は「生谷さんのああいうストイックな所だけは絶対に俺達に
は真似出来ねえ」とよく言いあったものだ。

つづく

現在、プール造りをしている 亘のカンパニー
https://www.instagram.com/wataru72?igsh=MXJmdm00djhpemZieg%3D%3D


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