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選挙に行けば社会が変えられるのか?ー前編ー

私は昔から選挙の意味がわからなかった。政治家を誰一人として信じるこ
とができないし、政治を仕事としている人に私の代弁や代表はできないと思う。会ったことも話したこともない人に自分の権利を預けるといった行為に意味が見出せない。

政治家が皆悪人であり、私利私欲のために働いているからだ、という話ではない。バイアスがかかっている人を信じられないという話でもない。

ただ一人の自由な人間として表現方法をコントロールされ、選択肢を狭まられ、希望を売りつけられることに抵抗をものすごく感じている。
私は選挙の時期が来るたびによく考える。自分の自由について。人間の自由について。

「民主主義=選挙」という考え方が民主主義そのものの機能を低下させて、
世の中を変えていきたいという気持ちをムダにさせてしまっているのではないかと思うのである。


便利な商品「希望」

希望は便利な商品である。
世の中には希望を売ることを商売としている仕事がたくさんある。近代の民主主義はその頂点と言えるのではないか。

賞味期限が短く、公約や制約は大量に製造されて消費されている。次のスキャンダルや事件戦争などが起こるたびに民衆の意識はそちらに向き、誰も覚えていない。希望は実体がないので、好きに希望を解釈することもできるし、どちらの希望が叶いそうか、親近性が高いかを比較する作業も簡単なのだ。

選挙の時期になると、世間は自分の希望をマイクで人に怒鳴りつけ、人から聞いた希望をまた別の人に押し付ける行為をする人たちで溢れる。押し売りされている希望はちっぽけなものが本当に多く、質より量が優先されている。

同じ希望を持ち、そこに向かってともに歩んでいけるような人間に出会えることが、どれだけ希少なことなのかを多くの人は忘れているようだ。


恐怖ベースの民主主義

多数決性の民主主義は、宗教の多くと似ているが、恐喝行為に見える時がよくある。一昔前の英国の脱EUについての議論がまさにそれだった。恐怖が盛り込まれためちゃくちゃな理論が両側から持ち出された。一見リベラルで民主主義を深く理解していそうな人でも、競争相手を表現する時には恐ろしい恐怖をほのめかしている。
「私のためにあなたの自由を放棄しないと恐ろしい未来が待っています。」と。その結果、人々は「怖さが低い方」を選ぶ羽目になった。

このことに気づかぬまま、恐怖ベースの「民主主義」を進めると人々は恐怖を回避するために戦争を起こし、殺人を正当化する。


自由の定義とは?

最高峰にある恐怖は「個人の自由の剥奪」である。
「あなたはこれだけしか自由でないんです。又は、あなたの自由は減ってしまうかもしれないんです。だから戦いましょう。」

聞き流されているが、選挙の議論中にこのような発言をよく聞く。
これが本当だったとしたら相当怖い話ではないか。

自由とは生まれ持ったものであり与えられるものでも取り上げられるものでもない。冷静になって考えると、このことに気づけるはずなのだが、多くの人は個人の自由が剥奪されていることに気づいていないように思える。

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