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選挙に行けば世界が変えられるのかー後編ー

国民は誰のために、何のために選挙に行くのか?

どんな民主主義国でも票は売買されている。明らかな売買もあれば、商品の消費や脅しを経て得る票など色々ある。ツイッターやFacebook、広告代理店やマスメディアの影響力は我々の生活の奥深くまで及んでいる。現状の影響力、また影響力が必ず悪いかについてはまた別の議論であるし、本題にあまり関係ないので割愛するが、その影響力の存在についての理解は重要である。

仮に我々が投票した結果通りに物事が決定されていっている世の中であったとしても、票の売買が行われている場合、結局誰のための民主主義なのか、はっきり根拠を持って言える人はいるのであろうか。
 
国民は何のために、誰のために選挙に行き、友達を判断し、罵り合っているのか。選挙の結果とそこから先の出来事が無関係になっているのではないか。

「勝ち組」「負け組」が世の中にできてしまう理由

多数決性の民主主義は人間の主張を最小化するメカニズムだ。一見参加者が多い多数決の方が有効力が上がるように見えるトリックでもある。案が通らなかった少数派の人間達はいつの間にかマイノリティ化され、その結果、「勝ち組」「負け組」という現象が発生し、協力が難しい関係性が出来上がってしまう。そして恐怖を逃れるために「希望」という商品を探しに行くというサイクルがまた始まるのである。

社会を変えるには、過半数のみが必要ではないはずだ。全員が関係し変革への参加の形がさまざまある。正しいやり方が一つあるのではなく、状況やタイミングにあったやり方が常に変化しながら存在しているはずである。

時代遅れの政治の評価基準

我々の社会が本当はどこまで政治や民主主義に頼って進化し、問題を解決しているか、といった議論はまた別でしたいと思うが、多数決で物事を決める行為がどれだけ特殊な行為かについて考えてみて欲しい。多数決が有効なのはとことん議論ができる比較的小規模グループの内での話の時ではないのか。

Yes か No かのどちらかの数を、人口の分だけ数えるやり方が大昔から利用されてきていた理由はわかる。情報の量的にも限界だったのであろう。ただ最近ではいろいろな評価の仕方が現れている。実はそれらは昔からのYES、NO 評価をベースにしたものが多いが、表現の仕方や可視化の方法が新しくなっている。人間一人から得られる評価や、その他数多くの数値を集め、計算し、保存できる技術がかなり発展している。どうしてこのような技術が政治に使われないのか。


イノベーションはどこで生まれるのか

多数決でイノベーションが生まれた例など聞いたことがない。あるのかもしれないが、議論や評価などを経て出てきたイノベーションの方が圧倒的に多い。政治や選挙、我々が今「民主主義」と呼んでいるものも、実はいろいろアップデートされはじめている。日本ではまだ知られていない例も多いかと思うが、中心のない分散型のネットワーク、「個」対「個」のネットワークや判断メカニズムも多く見られるようになっている。こういったイノベーションこそ我々の自由をサポートしてくれるメカニズムかもしれない。

社会の流れが変わる時とは

私はこの国で選挙をする権利がない。だがあったとしても行かない。選挙に行くことが自分の自由の放棄を促す行為だと信じているからだ。悪影響がまったくない判断などないとは思うが、かなり高い確率で悪影響があるとわかっている判断に私は加担することはしない。他に方法があることを知っていながら壊れたメカニズムに参加することはできない。その壊れたメカニズムのおかげで人が死んでいくのだから。

その代わり、自分の発言や思想がいつでもどんな時でもオーセンティックであることを心がけている。そしてできるだけ物事について深く考えるようにしている。そうすることによって選挙に行かずとも変化に参加し、加担し、評価し、加速できるからである。

ビジネスやさまざまなプロジェクト活動を通じて自分の思想が表現されていく。数少なくともそれらに影響される人たち、また私自身も影響を受けながら少しずつ行動を変えていく。その波紋が広がると社会の流れも変わっていく。思考力のある政治家はそれを察知し、ポリシーや法律を通じて思想が変化し、世の中は進化していく。社会の課題解決や進化は政治家に任せるという民主主義ではなく、これこそが本来の参加型の民主主義ではないのか。

私は自分がそんな民主主義の一員であることを信じている。

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