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僕たちは、二週間前にいいねしたツイートを覚えているか。(結論はない。5,188文字)
僕は覚えていない。
Twitterが一時、見られなくなった。
最近、Twitterが見られなくなった。api制限だとかそういう難しいことはわからない。
ただ、Twitterに対して少し考えようと思った。
見られなくなったことで、僕自身が、一日に何回も何回もTwitterを見ていることを再認識した。
何回もTwitterのアプリを開いて、見れないから、別のアプリを開いて、少し時間をあけてもう一回開いて、見れないの繰り返し。
何回も何回も開いている自分に、明確な理由はわからないが、これは危ないなと思った。
正直、何も思い出せない。
タイトルにもあるように、僕は二週間前にいいねしたツイートを覚えているのだろうか。いや、覚えていない。むしろ、二時間前にいいねしたツイートすら、思い出せない。
Twitterのリプライで誰とどんな会話をしたのか、思い出せない。
誰にいいねしたとか、誰かのツイートをリツイートしたとか、思い出せない。
正直、自分が昔にツイートしたことさえも思い出せない。そのツイートで誰かを傷つけているかもしれないのに、何も思い出せない。
それくらい無責任に僕は言葉を発信している気がする。
そのダメージに意味はあるのか。
誰かに良いことを言われた記憶よりも、悪いことを言われた記憶のほうが強く残っている。
かなりのダメージを負っているはずなのに、誰に言われたのか、いつ言われたのかを思い出せない。
同じ人に何回も同じことを言われたのか、複数の人に同じことを言われたのかさえ明確ではない。
たった1回言われたことかもしれないのに、頭の中では何回も反復してしまう。
そうすると、1回言われた悪いことが、頭の中で共鳴したり反復したりすることで、どんどん増幅していき、止められなくなる。
ダメージが加速度的に増大していって、心を蝕んでいく。
それで命を落としてしまう人もいるかもしれない。
このダメージに意味はあるのか。
発言する側は、何も思っていない。
自分自身がツイートしたことさえも覚えていないのに、だれかに悪いことを言われた記憶だけが残っている。
僕は、ツイートで誰かを傷つけているかもしれないが、それに対してはなんとも思っていないのに、自分が傷ついたことだけを覚えている。
それに意味はあるのか。
必要はない。
傷つく必要もないし、傷つける必要もない。
発言する側は何とも思わないし、発言を受けた側も何とも思わなくていい。
だから僕は、ツイートをしなくなった。する必要もないことに気が付いた。
そして、おすすめで流れてくる知らない人のどうでもいい発言に心を痛める必要もない。
僕からTwitterが必要なくなった。
それでもTwitterを見てしまうの僕はきっと中毒者だ。
ネットがすべてではない。
二週間前のネットニュースを覚えているか。
僕は覚えていない。ネットニュース、Twitterの炎上を思い出せない。
なのに、なぜか世の中が暗く思えたり、絶望を感じたりしたことは、心の隅に残っている。
昨日見たネットの記事を思い出せないし、昨日のTwitterのトレンドを思い出せない。
なのに、当事者じゃないのに、いつかの炎上に心を痛めたり、怒ったり、意見をツイートしたり、していた。
それらには意味があるのか。
僕の意見を誰が必要としているか。
誰も必要としていない。僕の意見を誰も必要としていないし、貴方の意見も僕は必要としていない。
炎上やネットニュースに対して、意見することで、承認欲求だったり賛同を得たいのかもしれないが、それに意味はない。
なぜなら、どうせ覚えていないからだ。何をツイートしたか、誰に何を言われたか。思い出せないのに、発言する必要はない。
今の時代、Twitterという場で、いろんな人が意見を言えるようになったが、「別にお前の意見なんて聞いてねぇよ。」の集合体でしかない。
僕自身もそう言われたことがある。
そして何より、すぐに情報が新しくなってしまって、どんな意見でどんなツイートをしたのかさえも思い出せないのに、真剣に問題を考えたり真剣に意見を発信する必要があるのだろうか。
極論や正論でしか盛り上がれないネットの世界。
ネットで炎上するのは、必ずと言っていいほど、極論だったり正論で物事をとらえたことばかりだ。
極論に極論をぶつけ、正論に正論をぶつける。じゃないとネットの世界は盛り上がらない。
なぜなら、「曖昧でいいんじゃないですかね。」と意見を言ってしまえば、そこで議論は終わる。議論がすぐ終わるものは、炎上しない。
極論同士でぶつからないと、炎上しない。
世の中、極論や正論で物事をすべて捉えることは出来ない。なのに、ネットの世界は極論や正論で溢れている。
だから、ネットの世界は、リアルの世界ではない。ネットの世界がリアルの世界だと思ったら、大間違いだ。
リアルの世界はもっと曖昧で、もっといろんな色がある。白や黒だけじゃない。
ネットの世界に慣れていたら、心は壊れる。
極論や正論は、誰かを傷つける。曖昧さで僕たちの心は守られている気がする。
極論や正論をリアルの世界に持ち込んだら、生きづらくなる。心の余裕や、遊びがなくなる。
ネットの世界に触れ続けて、ネットの世界に慣れてきたら、リアルの世界とのギャップに苦しんでいくことになる。
だからどこかで気づかなければいけない。
ネットの世界は、リアルの世界ではなくて、ネットの世界がすべてではないこと。
曖昧でいい。
結論はない。
結局、ここまで、思ったこと、考えたことをつらつらと書き連ねてきたが、あまり意味はない。
ここで書いたことさえも、僕は忘れてしまうだろう。
結論はないし、どうしたほうがいいとかこうしたほうがいいとかはない。
今のままでもいいし、別にこれから行動を変えてもいい。
ただ、僕はここ最近考えていたことをこのように書き連ねることで吐き出せることができたので、すっきりしたように思える。
Twitterを辞めてみる、ネットニュースを見るのを辞めてみる。それもいいだろうが、辞められないんだろうなとも思える。
物事を白黒だけで捉えていたら、僕自身も白黒でしか捉えてもらえなくなる。
そうしたら、結果だけがすべてになってしまって、経過を見てもらえなくなる。
それは悲しい。
きっと世界は曖昧で、いろんな色があって、いろんな色の移り変わりもある。だから、もっと曖昧でいいんじゃないかって思う。
曖昧を愛そう。
僕はそう思う。
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追記。
事実か空想か。(7/5
Twitterでツイートするときに、面白いことを言おうと思って、省いたり、付け足したりすることで、本来の事実とは異なるものになったとしても、それがバズればあたかもそれが事実のようにとらえられてしまう。
挙句の果てには、もともとそんなことがなかったのに、頭の中で作り上げた事実をネタのように書いて、たくさんのいいねやリツイートをもらうことで、承認欲求を満たそうとしている。
そんなことが横行しているようにも思えるTwitterで正しい情報を得られるのだろうか。
僕がツイートする内容は、果たして本当にこの世界で起きたことなんだろうか。貴方が面白がってツイートする内容は、本当にこの世界で起きたことなんだろうか。
目の前にいる人の話よりも、ネットで知り得た面白い話のほうが、信用できるのだろうか。
ネットにある情報が、正しいという根拠はどこにあるんだろうか。知らない人が、ネタのように書いたものを簡単に事実として捉えていいのだろうか。
「会社でこんなことを言われた。」「今日、こんなことがあった。」それらは本当にあったことなんだろうか。
省いたり付け足すことで、それは本当に事実なんだろうか。
これを繰り返していくことで、自分が見えている世界と頭の中にある空想の世界と区別がつけられなくなっていって、時間が経ったときに、本当はそんなことなかったはずなのに、「あった」と勘違いした記憶のまま生きていくことになっていくことになるのではないだろうか。
会ったこともない人の情報を簡単に信じて、目の前にいる人の話を一切聞かないのであれば、リアルの世界に生きている意味は果たしてあるのだろうか。
僕たちの脳はそんなに賢くできていないのに、目の前で起きている尊いことを忘れてしまうかもしれないのに。
起きた事実とはかけ離れているネタをツイートして、それがリアルの世界か空想の世界か区別がつかなくなって、なかったことがあった事実として間違った認識のまま生きていくのは、僕は虚しいかもしれない。
僕たちの脳が処理できる情報の量はそんなに多くないのだから、目の前にいる人のために脳の処理能力を割いていきたい。
これから出会うことが出来る人数も限られていて、これから考えられる物事の量も限られているのであれば、
極論や正論、事実ではないこと、空想だったり虚言で溢れているネットの世界に触れる時間は、今よりももっと少なくてもいいんじゃないか。
そう思えてきた。
スレッド、スレッズ?(7/7
元フェイスブックことメタがスレッズなるものをサービス提供し始めた。Twitterみたいなもんだ。
僕が捉えられるネットの世界にいる人間はこぞってスレッズを始めていた。
僕も始めた。
一時のクラブハウスみたいなものだ。
みんな始めている。新しいものに取り残されたらいやだ。不安になる。だからとりあえずわからなくても始めようとする。
あとは、Twitterで広がってしまった人間関係とは別の人間関係が構築できるんじゃないかという期待もあったりするんだろうか。
Twitterの人間関係は、ネットとリアルが混ざった微妙な世界になっているんだろうか。そこでの気苦労だったり、疲れだったりに嫌気がさして、他の環境に行きたいと思っているのだろうか。
僕はインスタグラムから連携してしまったせいで、インスタグラムでの人間関係と、Twitterの人間関係が入り混じってしまい、困惑して、結局あまり開かないようになってしまった。
この際、Twitterも開かなくてもいいんじゃないかと思うようになった。インスタグラムも同じ。
SNS疲れ。そんな簡単な言葉で表現できればいいが、簡単に、人間関係のわずらわしさを感じたのだろうか。
友人関係、会社の人間関係、Twitterの人間関係、インスタグラムの人間関係。そしてあらたにスレッズの人間関係が始まるのかもしれない。
もう僕ら人間の処理能力をはるかに超えたことが始まっているのだろう。それに適応しようと踏ん張ろうとしているんだろうが、そこまでしなくてもいいんだろうな。
もし、snsを辞めたら、どんな変化が起こるだろうか。
自分が正しいと思ったら間違いだ。(7/13
そもそもTwitterの最初は、単なるつぶやきだった。
「あつい」「学校だるい」「レポート忘れた」「おっぱい揉みたい」
そんなことだけを呟いていたはずだ。
いつからか、素人、一般人のご意見箱になり、芸能人、有名人の広告発表の場になり、挙句の果てには誹謗中傷の海となってしまった。
自分の意見が正しいと思っているときは、周りが見えていなくて、他人を傷つけていることにすら気づかない。
そして、正論は人を傷つける。ましてや極論なんて議論を放棄して人を傷つけることしかしない。
Twitterなんていうのは、議論なんかしなくていいし、正論なんかどうだっていい。
もともとは情報の正確性なんて必要のなかった場所で。デマや嘘情報があふれていた場所だ。
倫理やモラルがTwitterに持ち込まれたせいで、くだらない呟きが出来なくなってしまい、正論や極論、知らない素人や一般人のご意見表明、芸能人、有名人への誹謗中傷まみれの世界になってしまったのではないか。
昔より、なぜかフォロワーに監視されているようで、居心地が悪くなってしまったようにも思える。
「誹謗中傷を無くそう。」そんなことを言っても無駄だと思ってしまう。
なぜなら、世の中は20年前から「いじめを無くそう。」と言い続けているからだ。
いじめも誹謗中傷もなくならない。誰も無くそうと本気で動いていない。いじめや誹謗中傷に参加する人間は、自分が大多数のうちの1人だと思っているから、当事者意識が薄れている。なので気づいていない。
まずは、自分が弱いことを認めなければいけない。
僕の心の中には、自分より下の人間を作り、その人間を蔑み、嘲笑いたいという欲求がどこかにあること。
そして、そこからこれに向き合って、いかに人を傷つけないかを真剣に考えること。
でなければ、人を傷つけていることに気づかないで、言葉の刃で相手を切り刻むことになる。
自分が品行方正の人間だ。正しい人間だと思っているうちは、気づかない。僕は弱いし、人を傷つけてしまうかもしれない。だから注意しなければいけない。
自分は大丈夫だと思ったとき、それはすでに間違えている。
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