小説:明日の僕らに喜びの花を贈る 後編
――あなたに出会えて、よかった――
私はただ、座って待っていた。不気味な洞窟の中枢で私の命を奪い生け贄に捧げてくれる者を。待っている間色々なことを考えていた。一族のこと、儀式のこと、一度だけ話したオオカミ族の青年のこと……。心残りがあるとすれば、あの青年にもう一度だけ会って話をしてみたかったなという小さな願いだった。背後から近づいてくる足音に気が付いたとき、そんな気持ちも消えてしまった。いよいよ儀式が始まる……
足音が近づいてきたその直後に何かが落ちる音がしたけれど、私の耳にも心にも波風は立たなかった。この洞窟に入るとき、身を護るためだと言われて剣を渡されたけれど闘うつもりも、逃げるつもりもなかった。私はすでに覚悟を決めている。覚悟を決められたのはこの花が一緒にいてくれたからかもしれない。一番好きな花を一輪だけ隠し持ってきた。この花の香りに包まれながら、私の命を捧げ、誰かを命を護れるならと願って……
「……もしかして、君なのか?」
オオカミ族の代表が来たのだろう。尋ねられた私はゆっくりと後ろを振り返り、彼の顔を見てこう思った。
―もしかして、あの時の……そうか、あなたになら、私は――
おそらく私は、驚いた顔とうれしい顔と悲しい顔。あらゆる感情が詰まっている顔を彼に見せてしまった。
「私を、覚えているのですか?」
あの時は私のほうが早く起きていたから顔を知らないはずなのに。
「……君の、好きな花の香りさ。それだけは覚えていたから」
ああ、そうだったのか。私は花の香りを覚えていてくれたことがなによりも嬉しかった。
「どうして君が代表に?とてもじゃないが強そうには見えない」
「……オオカミ族の方は強い者が代表に選ばれるのですね」
彼は、とても強いのですね。
「オオカミ族は、って……それじゃあ、君たち羊族はどうやって……?」
「……生きるに値しない者が大抵選ばれます」
自分で口にして自分で傷つく。
「……なんだよそれ!生きるに値しない命なんてこの世界のどこにも存在しない!!」
彼は私の代わりに怒ってくれた。この非道な世界に。
「君は、本当にいいのか。このまま僕に命を奪われても」
「……はい」
「無抵抗の君を、僕の手で、生け贄にしろと。君までそんなことを言うのか……?」
「……」
残酷なのは分かっている。私は、彼にすべての責任を勝手に押し付けて命を断とうとしている。私は、逃げているの……?
「……僕にはできない。無抵抗のまま命を投げ捨てようとしている君を、生け贄にすることはできない」
「……では、どうするのですか?」
この洞窟に入ったものは、必ず命を捧げなければならない。この洞窟に潜む守り神に。……私がそう考えたからか、ただの偶然か。洞窟の更に奥から何かが這い出てくる気配がした。
「……こいつが、守り神なのか?」
「……なんて、おぞましい……」
巨大な大木ほどある長い胴体に黄色く光る二つの目玉。口は大きく裂け、舌が獲物である私に、いや、私たちを品定めしているかのように動いていた。
大蛇と呼ぶにふさわしい貫禄のある山の守り神が暗闇から姿を現した。
「……どこが守り神なんだ。ただの化け物じゃないか」
「この山の王者、なのでしょうか。天敵がいないのなら神、と呼べるのかもしれません」
どれだけの命を吸い取りここまで大きくなったのだろうか。
「君は、この化け物を見てもなお、自分の命を捨てようと思うのか?」
「……それは……」
私が生まれた意味はこの大蛇に命を捧げるため……?
ここから逃げた先にはなにが待っているの?
「私には、ここから生き延びたとしても帰る場所がないのです。大蛇から逃げるすべもない。どちらかが生け贄にならないといけない運命なのです!あなたは、生きてください!」
あなたの代わりに、私が命を差し出します。私は、やはりあなたに出会えてよかった。またひとつ、私の心の支えになるものが増えたのだから。
「…………」
彼は、心を決めたように私を見据えた。さぁ急いで。その手に持っている剣で私を。私の命を、あなたに――
「ひとつ、聞いておきたいことがある。僕の名前はレイン。君の名前は?」
――ありがとう、レイン……
「私の名前は、コメット」
あなたが覚えていてくれるだけで、私はうれしい。
レインは、目にも止まらぬ速さで剣を振るい、私は意識を失った――
「おおっ、お帰りさないませ!」
聖地である洞窟から僕が出たときには、既に夜が明けていた。オオカミ族の代表補佐が真っ先に声をかけてきたのは、僕の無事な姿を見て儀式が終わったことを悟り喜んでいるからだろう。
「ただいま。儀式は無事終わったよ」
命をひとつ、捧げてきた。
「ありがとうございます!これでまた6年間、両種族とこの山の繁栄は守られましたな」
「……」
羊族の代表補佐は固く、口を閉ざしていた。喜ぶかと思ったら神妙な顔をしたままだった。まだ少しは、良心が残っているのだろうか。もしそうなら、まだやり直せるチャンスはあると僕は思った。
「おや、ところでレイン様が担いでいるその袋は?」
「これか?「おみやげ」だよ。手ぶらで帰るなんてオオカミ族らしくないだろ?」
僕らは、二度と来ることはないであろう聖地を後にした。
6年ごとに行われる、儀式が無事終わったことを祝って祭りを行うのが恒例になっている。僕はその喧騒から逃れ、自分の家に帰り準備を始めた。……この村から出ていく準備を。
皆が寝静まったころに最小限の荷物と「おみやげ」を持って僕は18年の時を過ごした村を後にする。思い残すことはないがひとつだけ確認したいことがあるので、数年経ったらまたこの村の様子を見に来ようと思った。僕の身勝手な決断の先にある未来を受け止めるために。
「……なぁ、そろそろ起きてくれないか」
村からだいぶ離れたところで僕は「おみやげ」に向かってそっと呼びかけた。まる一日眠れるのはそういう種族だからだろうか、今まで眠れない日が続いていたのだろうか、僕にはまだわからなかったので後で聞いてみようと思った。
「……ん……あれ、私はどうして、ここに……?」
やっと起きたおみや……ではなくコメットに僕は説明するため、最初にこう言った。
「安心してくれ、儀式は無事に終わらせたよ。命をひとつ、捧げてきた」
もう二度と、儀式が行われることはない。守り神である大蛇の命を僕は、奪った。
「……そんな恐ろしいことを、どうして……」
「先に言っておくけど、君が生け贄に選ばれたから、とかあの雨の日に出会っていたから、っていう理由じゃないからな」
まぁ、大分その要素もあるけれど、コメットには内緒だ。
「僕は元々、あんな儀式には反対だったんだ。誰かを犠牲にして皆の安全が保障されるなんて、そんな世界嫌だったからね」
だから壊した、その世界のルールを。もちろん、一族の村に二度と戻れないことは承知のうえだ。皆が異変に気付くのはおそらく6年後か、それより前か。守り神がいなくなったことであの山がどうなるのかは分からない。何も変わらないかもしれないし、変わるかもしれない。
「もしも、あの山で何か異変が起きてしまったら僕は村に戻って罰を受けようと思っている」
神を生け贄に捧げた代償は大きい。でももしも、あの大蛇が守り神ではなかったら?
「もしも両種族が変わらず、無事に暮らせていたらあの大蛇は守り神でもなんでもなかったことになる」
そしたら僕は、やっと自由に生きていける。
「……どうして私を連れだしたのですか?」
「コメット、君は一度命を放棄して僕に預けた。だから、僕がもらったんだ」
だからこれからは、僕の好きにさせてもらうからな。
「……私を、どうするのですか」
「……僕と一緒に、生きてくれないか?」
……え、という表情で僕の顔を見るコメット。
「僕はもう、群れを離れたオオカミだ。ひとりではできないことも、これからきっとたくさんあると思う」
だから、君に手伝ってほしいんだ。
「君の命が無駄じゃないことを、これから一緒に生きながら、僕が教える」
どの命にだって意味はある。野に咲く花にだって意味があるように。
「ただ、もしも僕が罰を受ける日がきたら、君にも背負わせてしまうかもしれない」
わがままなのはわかっているけど。
「最後まで、僕のそばにいてほしい。君に生きていてほしい」
僕が言い終えたあと、コメットはうつむいてしばらく黙ってしまった。
後々考えると、僕はとんでもないくらい強引だったかもしれない。
それでもコメットにはこれくらい言ったほうがいいと思った。
生きる希望は、誰かの希望にもなる。あの雨が導いてくれた出会いを、あの花の香りが繋いでくれた奇跡を、僕は無駄にしたくない。
やがて、小さい声で「はい」という返事にあわせて彼女の頬を彗星のように大粒の涙が流れていくのを、僕は見ることができた――
あれから数年が経ち、僕らは変わらず一緒に生きている。一緒に生きる命が2つから3つに増えたり、僕らと同じ、異なるふたつの種族が一緒に生きていく道を選んだ者も周りに増えてきたりと、変化を楽しみながら生きている。僕らの故郷でもある隣の山に住む皆も平和に暮らしている。最初こそ仲は険悪だったが、今では時折、遊びに行けるようにもなった。守り神がいなくたって、僕らの一族は仲良く暮らしていける。戻って一緒に暮らそうと誘われたが、僕らはもう新たに生きていける場所を見つけていたので丁重にお断りした。
僕らの住んでいる家の周りにはあの花が咲いている。彼女が言った最初のわがままを叶えてしまった結果、家の周りが一面花畑になってしまった。そのうえに寝転がってみんなで昼寝をするのが僕の楽しみにもなった。今日も明日もこれから先もここで生きていく。僕らを繋いでくれたあの花に見守られながら――
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