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「伊豆海村後日譚」(27)

 集落の探索を開始して二十三分後、チェ・ヨンナムは死んだ子犬を見つけ、その一分後に血まみれとなった老夫婦を見つけた。新井の不徹底な処理方法がかえって幸いした。男の方は虫の息だったが、辛うじてその黒目に生命の兆候を宿していた。
「塩谷さんか」
 老人は口を開いたまま、微かに頷いた。
「あんたの奥さんはまだ生きている」
 ヨンナムの嘘に、老人の瞳孔に浮かぶ、消滅しかかった光が揺れる。
「佐々木の家を教えてくれたら、奥さんだけでも助けてやる」
 それだけの言葉を口にするだけで、割れた顎から後頭部にかけて激痛が走る。
 
 老人が腐りかけた畳に血で描いてくれた案内図通りに歩き、やがて平屋の純和風の家が見えてきた。鍵のかかった玄関扉。鍵穴をナイフでこじ開ける。すぐに人の姿は確認できないが、家の匂いがここで複数以上の者が現在も生活していることを兵士に教えてくれる。
 銃を掲げたまま、一歩ずつ慎重に進む。昼過ぎに「渚無線」で聞いた話では、ここに住む三十歳になる息子の暴力はこの家屋の中で続いているという。ならば致命的な武器の類いは家には置いてないだろう。では息子はどこで銃を調達し新井を撃ったのかといぶかりつつ、ヨンナムはゆっくりと歩いた。
 台所を一瞥し、リビングを横切り、三つあった部屋のドアに手を掛ける。二つは簡単に開き、中に誰もいないことを確認した。押し入れに向け発砲したが、何の反応もなかった。
 最後のドアは鍵がかけられていた。つまり中に人がいるか、中にいた誰かが窓から外に逃げたということだ。チェ・ヨンナムはドアを蹴破って部屋の中に飛び込んだ。
 椅子が飛んできて、彼の肩を直撃した。
「直美は何処に行ったあ!美優と真優はどこだあ!」
 素早く体勢を立て直したヨンナムが猟銃を向けると、明らかに正気を失った眼をこちらに向け、叫び続けていた男は右手に持った本を床に落とし、へたり込んでがたがたと震えだした。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 元人民軍兵士は静かに尋ねた。
「今日、コンビニエンスストアで俺たちの仲間を撃ったのは、おまえか」
「ごめんなさいごめんさいいいいい。助けてくださいいいい」
 泣き始めた男から異臭が漂う。失禁だけでなく脱糞もしているようだった。これは演技なのか?
 渚無線で聞いた話では、こいつは東京で銀行員をやっていて、中国出張中に東京上空での災厄を知り、韓国に移動し非合法の漁船を使ってまでして日本に帰ってきたはずの男だ。演技だろうが地の反応であろうが、危険人物であることに変わりはない。ヨンナムは猟銃を構え直した。
 壊れた扉の向こうで音がした。そして荒い呼吸音。
 兵士は約三メートル離れた位置で軟体動物のように床へと崩れている男から反撃の気配がないことを確認しながら、上半身を捩じって銃先を扉へと向けた。
「ああああああああ!」
 老夫婦が部屋に入ってきた。老人の右手には錆びた包丁が握られていたが、その動きは冗談のように緩慢だった。兵士は躊躇なく引鉄を引き、老夫婦は血潮を撒き散らしながら後方へと吹っ飛び倒れた。
 壁の漆喰が弾けて飛び散る。
 倒れ逝く彼らの顔はところどころ紫色に腫れ上がり、老人はおろか老婆の方にも毛髪は殆ど残されていなかった。全身を赤く染めながらも、それでも老人は顔を上げようとして、声帯を失った者の声にならない声で叫び続け、包丁の切っ先を侵入者に向け続けた。
 自分たちを毎日のように殴り続ける息子。それでも彼らはその息子を守ろうと、決死の行動に出たのだった。使いものにならない武器を手に、ゼロパーセントに近い可能性に賭けたのだった。
 その息子はまだ震えている。
 過去に撃ってきた人間、刺してきた人間、絞めてきた人間は、ヨンナムには単なる標的だった。射撃場で左右に動くベニヤ板と何も変わらない、本当にただの標的だった。殺した相手の向こうに生活を見ることもなく、家族を見ることもなく、残された者の哀しみを見ることもなかった。昨夜元山夫妻に手を下した時と同様に、彼は実際に生き、感情を持ち、誰かを愛し、現実に呼吸している人間を殺したような気がした。それは本当に嫌な気分だった。チェ・ヨンナムは自らの排出した汚物にまみれて全身を震わせ、親指をちゅうちゅう吸い始めた男の額にトカレフの弾を一発、撃ち込んだ。妻と娘を失い、たった今両親と自らの命をも失った日本人のために、しばらく瞳を閉じた。
 そんなことをすれば一七〇〇までに全ての家々を回るのは難しくなると分かっていながら、彼は佐々木家に火を放ち、かつては豪勢だっただろうその建物に炎が広がるのをしばらく眺めた。死体を埋めてやりたかったが、凶器にもなるスコップがこの家にあるとは思えなかったし、その時間もなかった。
 彼らの霊魂がこれを火葬と解釈してくれれば良いのだがと願いつつ、燃え盛る家を背中にして、パク・チョルスに無線で連絡を取り、今佐々木を処理しました、とだけ痛む顎を動かしながら告げた。
 
 ***

 神戸市灘区、山蛇組本部。
 組長は今後の方針を七名の舎弟に伝えるべく、まず一本目の電話を掛けた。舎弟の下には六十余名の若中がおり、それぞれが二次団体、三次団体としての組を独自に構え、そのピラミッド構造体に属する者は全国で二万から三万人と言われている。『混乱の五年』期に数多の抗争を勝ち抜き、同時にそれに見合う犠牲者を出した組織の員数はデータの情報源によって大きく異なるが、それでもここが日本最大の非合法組織であることに変わりはない。
 舎弟一同を神戸に集め、コンクリートの下に鉄板を張り詰めた会議室で今後の方針を伝達しても良かったのだが、山蛇組は公式には「沼津の事件は当組とは一切関係がなく、現在当組の名称を最初に出した配信社に対して名誉棄損への法的措置を検討中」との立場を堅持していた。それはある意味全くの嘘でもなかった。そういう時期に幹部連中が雁首揃えて本部参りをするのは、何かと具合が悪い。
「今朝、九巻には厳重注意をしておいた。次に粗相を起こしたら直参から外すと」
「指でも持ってきましたか」
「そんなもんもろても何の足しになるんや。まあ新井を連中に付けたのはわしら全員の総意でもあったからの、そない厳しいこと言えるかいな。取り敢えず今年いっぱい義理かけの際には包めるだけ包むと答えよった。あと、今日付けで新井敦司への絶縁状を通知するそうや」
 会社組織で言うところの懲戒免職は、ヤクザ社会では破門、絶縁、除名といった言葉で表される。破門がその後の含みによっては同業の他組織への「転職」の余地を持つのに対し、絶縁と除名はその世界における居場所の完全なる喪失を指す。構成員を処分した組が同業者に配信する「絶縁状」を受け取った団体もまた、たとえ敵対組織であろうともその当該者からのコンタクトには今後一切応じてはならないとする、百年以上続く鉄の掟によって、対象者は何処に行っても石持て追われる存在となる。そもそも、どの世界でも周囲に馴染めず、何をやってもまともに務まらない人間の最終的な受け皿としてスタートしたのがヤクザと呼ばれる組織である以上、余程のことがない限り絶縁や除名という形での追放は行わない。新井敦司への通知は、それだけ幹部連中の深い怒りの表れでもあった。
「パク・チョルスたちへの処分は?」
「知らん。あいつらはウチのどこのモンでもあらへん。ただのフリーランスや。俺は満海から命からがら逃げてきたあいつらがあまりに気の毒で、せやからたまにメシ食わせてやってただけや。しょうもない事件起こされて俺かて困っとるんや」
 よう言うわ、と舎弟は喉の奥だけで呟き、よう言うわ、と組長も自嘲的な笑いをこらえた。県警の奴らもどこかでこの通話に聞き耳を立てているだろう。
 特に今回は事件が事件だ。総本部長名義の電気自動車から辿って連中の身分照会を求めてきた時の兵庫県警捜査員には一切の笑顔もなく、出したお茶にも目もくれず、今日はシャンシャン捜査で帰るつもりはないという態度を隠そうともしなかった。彼らとて世間向きに発信した暴力団壊滅というお題目を本気で実行に移す意志は全くない。そんなことをすれば退職後の再就職先を半分以上失ってしまう。しかし時として、本気で喧嘩をしなければならない状況も発生する。そして今は、警察が束になって本気中の本気と言える喧嘩を売ってきている時だ。そうした背景もあって山蛇組七代目組長は、この電話も盗聴されているという前提で各舎弟とコンタクトを取り、パク・チョルスたちに盃などくれたことはない、と繰り返したのだ。
「連中はどこに潜っとるんでしょうな」
「俺が知るか。ナットマイビジネスや」
 本当はあたりをつけていた。奴らに依頼した仕事の一つ、麦笛のあのタヌキ野郎を半年前、箱根で仕留めた件。
 タヌキが伊豆海村とかいう「伊豆のチベット」に別荘を買うという酔狂な真似をやらかしたことは、山蛇組はその直後に掴んでいた。パク・チョルスたちが独自のルートでそれを調べあげたことも知っていたし、周囲の誰にも気付かれることなく自分たちがそれをやり遂げていると彼らが自負しているのも知っていた。奴らがどれだけ満海人民軍でござい少佐でございといきがろうとも、百年以上に渡って無法者を掻き集め、淘汰し、敵対組織と生きるか死ぬかの争いを繰り広げ政治屋どもと丁々発止のやり取りを行い、そこらの大企業を軽く凌駕する構成員とそれを支える商売を通じて日本の地下経済を支えてきたこの国内最大の任侠団体のトップから見れば、彼らとて所詮歯車のひとつに過ぎず、いざとなれば捨て去るだけのトカゲの尻尾に過ぎなかった。
「ああそうや、一つだけー」組長は注文を出した。沼津の船、ちゃんと見張っとけ。
「蜂須賀に伝えておきます」
 組長の知るチョルスは、常に冷静な男を演じ、それが自分の生まれついての性質であるかのように振る舞っていた。それはいつも組長に、優雅に湖面を移動する白鳥がその水面下で必死に足を掻いている姿を連想させた。ただあの元少佐には少なくとも無意味な殺戮を好む傾向はなかった。警官に職質されただけで拳銃をぶっ放すような青二才的犯行と、いつも梅干を口にしたような彼の表情がどうしても結び付かず、このあらゆる刑事犯罪を経験してきたボス中のボスは一つの結論にしか辿り着かなかった。
 奴らはそれほどまでに祖国に帰りたがっていたのだ。
 そうなると考えられる彼らの次なる目標は、明日九時に沼津港を発つ貨物船への乗船でしかない。高度な殺人技術を持ち、あの洗脳国家で生き抜いてきた奴らのことだ、様々な手を駆使して警察の何重もの網を潜り抜け、船に乗り込まないとも限らない。連中がハスンに帰れば二度とこの国に戻ってくることはないだろう。組が命じた数件の殺人事件は闇の中に埋もれたままとなる。双方ともに万々歳だ。
 しかしそれでは駄目だ。あいつらに相当のオトシマエをつけさせることなく帰国を許せば、この組織の規律が緩む。敵対団体に嘲笑される。失った船は保険でどうにでもなるが、地に墜ちたメンツは保険ではカバーされない。
 奴らが船に乗って気が緩んだ一瞬を衝く。組長はそのための策を講じた。
 
 ***

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