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長編小説「平壌へ至る道」(94)

 駅を出て、男が振り返った。趙秀賢はそのまま速度を落とすことなく歩き続けた。若い女が男に近づき、男に何かを言われて慌てて離れた。二人が知り合いだとすると、あの女こそが元山の娼婦、辺昌淑か?
 面通しに協力させていた売春宿の女将と盧一権を、より彼らの行先として確率が高いと考えた東北部、羅津に送ったのはミスだったかも知れない。
 そしてそうであるなら、ますます平壌の中枢にこの失態を知られる訳にはいかない。平壌保衛部の明少佐の機転で、「これは訓練のための都市封鎖であり、そこに偶然元山で幅を利かせていた窃盗犯が平壌まで逃亡、との情報によって同地まで追跡に来ていた趙秀賢に協力中」というストーリーを講じてもらっている。訓練である以上、足かけ三日も続けた張り込みは今日が限界だろう。
 何としてもこの日のうちに、ヤマダを確保しなければならない。

 男は平壌駅ホールから地下通路へと降り、地下鉄の「栄光」駅へと消えた。女も続いた。心証は灰色。
 男は平壌地下鉄千里馬線の「赤い星」駅方面の列車に乗った。女も同じ車両へと。趙は隣の車両に入った。
 「烽火」駅。男は動かなかった。
 次の「勝利」駅でも同様。
 車両のスピーカーから、金日成を称える革命歌が流れてくる。何度か平壌には出張で来ているが、趙はこの地下鉄の革命歌と、大仰な駅名がいつも肌に合わなかった。可能な限り地下鉄は使いたくなかったが、ある程度正確な運行が期待できる公共交通機関は他になかった。
 「統一」駅。男はやはり動かなかい。乗客の多くが下車し、彼我間の遮蔽物が激減した。捜査官は舌打ちした。
 「凱旋」駅。相変わらず男は車両内に留まっている。
 「戦友」駅。男が降りた。女が後を追う。趙も続いた。
 男と女が知り合いなのはもう明白だった。なぜ他人同士を装いながら彼らは地下鉄に乗ったのか?
 そうする理由があったから。
 心証、暗灰色。それだけでこの共和国では、現行犯逮捕の対象とできる。
 男は出口へのエスカレーターには向かわず、足を止めてホームの反対側に立った。
 畜生。折り返しやがるのか。
 男が背後へと首を回した。通り過ぎる自分の背中をじっと観察していることを、その強烈な殺気が振り返らずとも教えてくれていた。
 趙はそのまま致し方なくエスカレーターに乗った。一旦尾行は打ち切らざるを得ない。
 長い長いエスカレーターだ、再びホームに戻る頃には二人の姿は消えているだろう。
 
 十分後、趙秀賢が折り返しの下りエスカレーターから再び「戦友」駅ホームに降り立っていた頃には、やはり標的の姿は既になかった。
 考えろ。あの二人は間違いなく新婚旅行を装っている。目的地は「烽火」と「凱旋」の間だ。
 新婚旅行を騙ったテロリストのカップルが、この途上で足を運ぶ場所はどこだ?
 優秀さではなく人徳と運によってカリスマ捜査官に仕立てあげられたに過ぎない男でさえも、そこがどこなのかは容易に推察できた。
 折り返し「復興」駅方面の列車に乗り込んだ趙秀賢は、「統一」駅で下車した。
 やはり果てしなく長いエスカレーターは人で溢れ、追い抜かして歩くことは難しく、彼の焦る心を苛立たせた。
 ようやく地上に出る。目の前に金日成の二十五メートルの銅像が、周囲を睥睨するかのように聳え立っている。
 
 朝鮮人民軍の張中尉は俺に気付かなかったのだろうか。奴は追いかけてこなかった。
 別の犬を想定し、「戦友」駅まで粘った。そこで自分に続くようにして地下鉄車両から降りてきたのは、平壌駅の改札口で張中尉の横に立っていた男だった。意図的なのか能力不足なのか、尾行者の気配を四方に撒き散らしている。
 鄭相慶は突如として駅のホームで足を止め、後ろを振り返った。
 尾行者おぼしき男は、下を向いてそのまま歩き続け、そのままエスカレーターに乗り、そのまま上まで向かった。相慶は念のためエスカレーターの真下まで歩き、この国に入って初めて、町中の衆人下で他人に対するあからさまな敵意を視線に込め、小さくなっていく男の背中を睨み続けた。
 相手はこちらを振り返ることもなく地上に消えていった。
 相慶はそこで他人のフリを続けていたチャンスクに、ようやく笑いかけ、
ちょうど到着した反対方向への列車に乗り、「統一」駅で一緒に降りた。
 地上に出て、道路を渡り、丘を登った。
 これから自分がやるべきことを分っている身にとって、値段の割には新鮮とも言えない花を買うことも、それを首領様の足元に捧げることも、像に向かって深く一礼することも、屈辱には感じられなかった。むしろこの像の鼻下にチョビ髭が描かれた姿を想像し、笑いを堪えるのに苦労した。この丘で像と同じポーズを取ってカメラに収まった外国人旅行客がその後行方不明になった事実もある。本当に笑い出してはいけない。彼は隣に偽装妻を従え、他の善良なる人民と同じような行動様式に従った。
 買ってきた花を献花台に置く。頭を下げる。そして再び頭を上げる。
 視界の右に、男の姿が映った。地下鉄に乗っていた男だ。
 彼は小さな声で、前を向いたまま尋ねてきた。
「ヤマダか」
 チャンスクが本能的に、そっと相慶の腕を取ろうとして、すぐに気づいてその手を引っ込めた。右に立つ男がやはり小さな声で続けた。心証、黒。
 三人ともそしてしばらく何も話さなかった。今この男を倒すことはできるか?相慶は自問した。
 できる。
 しかしその後は?周囲の兵士が躊躇なく撃ってくるだろう。俺が死ぬのはまだいい。しかしチャンスクを巻き添えにはできない。新坪郡での朴尚民の言葉が耳の奥でこだまする。
 捕まればあいつの人生は終わりだ。それでも逃げたんだよ、チャンスクは。あんたを必死に掴んで、あんたに運命を託して。
 
「ヤマダだな?」
 祥原での金老人の言葉を思い出し、相慶は咄嗟に答えた。
「あんたが趙秀賢か」
 右の男はあからさまに驚いた顔をこちらに向けた。噂ほど優秀な犬ではないようだが、自分がこの男にロックオンされたのは紛れもない事実だ。
「残念だよ」
 相慶は空を見上げた。朝、町を覆っていたスモッグは消え去っていた。日の光を浴びてグロテスクに輝く、この国のリーダーの偶像が視界に入ってくる。
「もう少しだったのに」
「この町で何をするつもりだったんだ」
「この像の鼻下にスプレーでヒトラーのような髭を描いてやる予定だった」
 右の男はー趙秀賢はーまた意表をつかれたような表情を顔に貼り付け、それを慌てて消した。
 これが芝居でないのなら、と相慶は静かな溜息をついた。この国の人材難は相当なレベルのようだ。
「それだけか?」
「それだけ、というのは?」
「オマエが日本からわざわざ来たのは、それだけのためか?」
 二人は像の方へと直立不動の体勢を取りながら、話を続けた。
「そうだよ」
「経済特区での破壊工作じゃなかったのか?」
 相慶は上を向いたまま微笑んだ。
「そういうのは、嫌なんだよ。こいつは今までクソ大勢の人命を奪ってきた。俺が同じことをすれば、俺はこいつと同じクソ野郎になってしまう」
「ここではその言葉遣いはやめよう。頼むよ」
「失礼」
 五秒が経った。
「あともう一人、潜入工作員がいるだろう?そいつはどこに消えた?」
「ーああ、それはニセ情報だ。趙さんもまんまと踊らされたな」
 この国に来たのは、俺一人だよ。
 
 更に三十秒が経った。二人の男と一人の女は、その間小指の先すらも動かさなかった。
「なあ、ヤマダ」「何だ?」
「今日、晩飯を食おう」
「何を言ってる?」
「夕食をご一緒しようと言っている」
 大勢の人民が背後を通り過ぎていく。花束を捧げ、深くお辞儀を繰り返す彼らは、首都に来た高揚感は一様に発散しているものの、心底嬉しそうな雰囲気には見えなかった。
「逮捕しないのか」
「夜、話をしてから決める」
「よく分らないな。あんた保衛部の有名な捜査官じゃないのか」
「断れば、今ここで逮捕する。何なら撃ってもいい。俺はそれでまた株をあげる。隣りの夫人はもちろん収容所行きだ」
 それが本音かハッタリか、しかしここで賭けに走るのは愚の骨頂だ。
「ー分ったよ。何時にどこへ?」
「平壌には詳しいか?」
「全然」
「凱旋門は分るか?」
 隠れ家の近くだ。工作員は小さく頷いた。
「五時半だ」
「あんたは大丈夫なのか?俺なんかと会ってるところを誰かに見られても」
「自分の心配だけしてろ」
 趙秀賢は銅像に一礼した。相慶たちも仕方なくそれに倣った。
「逃げる自信があるなら今すぐこの町から消えていい。その代わり絶対に逃げ切ってくれ。確約できないなら、夕方必ず来い」
 趙秀賢はもう一度、今度は深く一礼し、きびすを返して丘を降りていった。

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