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「伊豆海村後日譚」(23)

 手元の無線機に挿していたイヤホンからから警報音が鳴った。
「こちら渚。草履集落の皆さん、取れますか、どうぞ」
 感度良好です、そう答えようとして、船戸は思い留まった。三留が一芝居打ってまで秘匿してくれた自分の存在を、しばらくは隠したままにしておくべきだろうと判断し、彼はトランシーバーの発信ボタンを押していた親指を離した。
「こちら稲葉。あのさあ渚さん、携帯が繋がらなくなっちゃったのよ。どうかしたの?」
「こちら杉山。ウチも圏外よ」
 老女たちの脳天気な返答が数本続き、再び渚の声がした。
「こちら渚。では本多さんの奥様と娘さん、犬飼さん、安田さん、稲葉さん、杉山さん、小野さん、金敷さんの奥様は、至急渚無線までお越しください。北田さんと土屋さんも、この通信を聞いていれば同じようにお願いします。塩谷さんは結構です」
 間違いない。渚さんは意図的に俺の名前を呼ばなかったのだ。
 若者は慎重に一階まで下り、カウンターで八十九式に銃弾を装填する。
 
 一体何なのよ、主婦たちは一様に文句を携えて渚無線にやって来て、十秒後には一様に押し黙った。
 犬飼、安田、稲葉、杉山、小野、金敷の各夫婦と、本多一家、三留親子。独り者は渚、北田、土屋。
 計二十名が集落一の社交場に集められた。
「我々の正体は皆様が既にご想像の通りです」パク・チョルスが朗々と喋り始める。
「我々は明日、沼津港からハスンに向かう予定でおりますが、現時点での風向きはあまり芳しいものとは言えません。明日は我々だけで何らかの策を講じて乗船するか、皆様の中から同行者を選んで港を強行突破するか、乗船を諦めるか、のいずれかを選択することになります。最初の案を我々が選んだ場合、皆様は明日午後には全員が解放されるでしょう。第二案の場合、数人程度は命を落とす恐れもありますが、その他の方はその前のケースと同様です。第三案の場合、皆様はしばらく我々と共に生活をすることになるでしょう。二果集落の伊豆ヒルズにある、麦笛会会長の邸宅跡を候補地として考えておりますが、あの家に関して何かご存知の方はいらっしゃいますか」
 挙手する者はいなかった。
「しかしこの集落にこれほど素晴らしい無線が揃っているとは思いもよりませんでした。皆様の安寧な毎日に踏み込むのは心苦しいのですが、あなた方の誰かが警察や自衛隊駐屯地に逃げ込まないとも限りません。渚さんを除く方々はこれから我々のうち二名の者に率いられ、会長宅にて少なくとも今夜、揃って一泊して頂きます。反抗的な態度を取られる方には、相応のペナルティを課しますのでそのつもりで。渚さんは私とこの女(と言ってチョルスはチェ・ヨンナムを指差した)と一緒にここに残り、警察無線の傍受作業に勤しんでもらいます。そして我々の残る一名は、皆様の家にお邪魔して武器弾薬の類いを回収して回ります。塩谷さんと佐々木さんのご自宅がその過程で見つかった時は、我々のルールに準じて相応の処置を講じます。おい、新井」
 首領の声掛けに、丸坊主の元ボクサーは顔を上げた。
「集落の家を見て回れ。一七〇〇にここに戻って来い」
 新井は微かに頷き、姿を消した。
「ジョンヒョン、ガンス。おまえたちはこいつらを伊豆ヒルズまで連れて行け。無線機を忘れるな。麦笛の家に入ったら、家の内外の様子、食料の備蓄状態、電気の使用可否などを教えてくれ。さて皆さんの中で、どなたか車をお持ちの方はいらっしゃいますか?」
 相変わらず誰も手を挙げず、パク・チョルスは同じ質問を繰り返し、同じ恫喝を付け加えた。嘘をつく者には昨日の沼津の警官と同じ命運が待つものとお考えください。
「自動車は誰も持ってない」
 三留が言った。元少佐は眉を上げた。「ご冗談でしょう?」
「軽トラならいくらでも転がってる。どれもこれもまる五年誰も触ってないし、ガソリンも入ってない。運試しに動かしてみるというのなら勝手にしろ。電気自動車を買う余裕のある者などいねえし、ここにあるのは屋根なしのトゥクトゥクだけだ」
 集落の面々は同時に頷いた。
「では歩いて行きましょう。先程こちらのお嬢さんから聞いたところ」パク・チョルスは三留香に顎をしゃくった。
「ここから別荘地までは五キロの道のりだそうですね。皆さんなら何でもない距離でしょう」
 渚無線を出た途端、三留は喚いた。
「ご婦人方に着替えは持っていかせないのか!伊豆ヒルズは近くに店もないんだぞ!」
 ハン・ガンスは答えた。あなた方は人質だ。それを忘れるな。
 二人の老人がおずおずと右手を上げた。
「高血圧の薬を取りに帰らせて」「俺は糖尿と緑内障だ」
 パク・ジョンヒョンがにこやかな表情のまま応じる。
「薬を切らせて死んでしまったら、それはその方の寿命です」
 警察の通信内容を掠めとる義務を負わされた渚を除く十九人の人質たちは力なく歩き始め、拳銃を左右に振りながら二人の旧満海人民軍兵士が後に続いた。
 
 杉山が三留に近づき、囁く。あいつは?
 店主が同じ声量で心配するなと答えたその時、背後から怒鳴り声が響いてきた。
「喋るな!」
 三留は足を止めた。すぐ後ろを歩く稲葉が背中にぶつかってきたが、構うことなく老店主は後ろを振り返って叫んだ。
「おい、おまえら!」
 全員の動きが止まった。老人に睨みつけられた二人の兵士が訝しげに眉を上げる。やれやれまたあんたか。最悪の事態を恐れた香が父親の盾となるべく、そっと隣に移動した。
「おまえら、パックンって言葉は知ってるか?」
 ガンスは知らなかった。ジョンヒョンが答えた。役立たず、という意味でしたっけ?
 三留は頷いた。いいか、この草履集落にはな、パックンなんて一人もいねえ。
 兵士は苦笑した。つまりあなた方は全員が気骨ある連中だということですね。よく分かりますよ。
 毎日のように渚無線に集まる「寅さん」のギャラリーたちはしかし、全く別の理解を示し、三留が自分たちに何を伝えようとしたかを即座に掌握した。五千万人が死んだこの五年、彼らはそうやって生き延びてきた。
 
 ドアのガラスが割れていたのが幸いした。
 三留の叫び声はコンビニ店内に潜む船戸の耳朶を確実に打った。その後に続く騒ぎの様子から、集落の住民が揃って伊豆ヒルズに連れて行かれたことが分かった。状況的に歩きだろう。そして歩きである以上、パク・チョルス一味は少なくとも二名をその引率に割くに違いない。もしかしたら全員が、一旦は別荘地に赴く可能性もある。しかし憶測は禁物だ。耳に聞こえる情報しかないのなら、耳に聞こえる情報だけで確実に結論づけられる判断を導いていかねばなるまい。
 渚無線の方から漂っていた大量の人間の気配が消え去り、静寂が後に残った。船戸は改めてライフル銃を握り直す。
 あいつの時は自分から動いた。
 あの時、俺はあいつを探して歩いた。今となってはその時間の記憶も定かではない。ほんの十五分程度だったような気もするし、三日近く歩いた感じもする。酔い潰れた後に寝床に戻るまで過ごした時間のように、それは不確かな液状の風景と混ざり合って断片的に浮き沈み、どれが現実で何が夢だったか、その思い出も不鮮明だ。
 今は違う。今は待つことだ。深く考えず、未来を想像せず、ただそこで漬物石のように動かず、酸素を吸って二酸化炭素を吐き続ける。それだけだ。
 カウンターからそろりと顔を出す。窓ガラスのないドアの外。通りに風が吹き、新緑が揺れている。通りを挟んで崩れ落ちそうな漁協跡の建物の向こうには、駿河湾の青く染まった海。陽光がきらめいている。
 なんだ、こうやって見ると、結構この国は回復してきてんじゃないか。
 船戸は待ち続けた。

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