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「伊豆海村後日譚」(36)

 三留香は話を終えた。数年来自分に纏わりつく黒く重い影も、いざ口にしてみると三十分足らずで終わるストーリーだった。何だ私の人生なんて意外とその程度のものだったんだ、と一抹の寂寞と、一抹の安堵が彼女の胸郭を浸すようだった。
「香さんも苦しんだんだね」
 船戸珠樹は女の肩を抱く左手に力を込めた。
 そして二人は、しばし無言の中にそれぞれの身を置いた。
 風に乗って銃弾の音が聞こえてくる。
 すぐ下ではパトライトがくるくると赤色光を発散し、遺体を回収し現場保全をしているのだろう、警官数人の足音が闇に染められた空気を時折震わせていた。
「私たち、これからどうなるのかな」
 香はぽつりと呟き、船戸はその言葉に込められた様々な意味を深く考えないようにした。
「取り敢えず病院に行く」
 銃の咆哮が、また微かに聞こえてきた。
「下に警察もいるし、ちょっと眠る?」
「そうね。私もここで寝ていい?」
 無邪気さを装った問いだったが、それを口にするのに彼女はいくばくかの勇気を胸中から掻き集めてくる必要があった。かつて男たちに同様の言葉を投げた時は、既に答えが分かっていたから緊張はしなかった。相手のことを心底では何とも思っていなかったから緊張はしなかった。
「もちろん。でも三留さんが朝までに帰ってきたら、せっかく生き残ったのに殺されてしまう」
 二人で同時に笑った。笑った後は、また静寂が二人を包んだ。
「ー眼は痛くない?」
「有難う、暗くしていれば大丈夫」
「眠れそう?」
「分からない。今日はあまりにも色々なことがあり過ぎたから」
「眠れそうにないなら、途中でそう言って」
「うん?」
「私の中にいくらでも出してくれて構わないから。私、もう妊娠できない体みたいだから、気を遣う必要もないからね」
 男は寝転んだ。女はその上にそっと寄り添い、男は女の頭をしっかりと抱きかかえた。遠くからパトカーの音が聞こえてくる。車はハイスピードで店の前を通り過ぎ、例の曲がり角で音を立て、八木橋へ続く道の奥へと消えていった。
「有難う、でも駄目なんだ」
「駄目?」
「俺、反応しないんだよ」
 女は左手を、ゆっくりと男の胸へと置いた。その温もりを確かめるように。
「答えたくなかったら構わないからね」
 女の言葉に男は微かに頷いた。
「放射能の影響?」
 船戸は首を振った。
「いや、それ以前から。心当たりもないし誰にも相談できなかったから、今日までそのまま。イジメの経験も影響しているかも知れない。こういうのって、暗示が暗示を呼び込むんだよ。俺はもう駄目だと思うと、いつの間にかそれが自分の中で動かし難い既成事実になる。既成事実になると、もう何度同じ経験を繰り返しても、それは変わらない」
 二人は再び沈黙し、ただ寄り添って闇を見つめた。二果集落からの銃声はもう聞こえてこない。「ー終わったのかな」
「三留さんが帰って来るかも。このままだとマズい」
「今夜は向こうで過ごすでしょう」
「根拠は?」「ないわよ」
「香さんがそう願っているだけ?」
「そうよ。悪い?」
「悪くない」
 男は女の髪を撫でた。
「取り敢えず眠ってみよう」
「うんーあのね、船戸くん」「何?」
「今、君が一番したい事は何?」
「寅さんが観たい」
「ー寅さん?」
「うん、『男はつらいよ』シリーズ」
「面白いの?」
「見たことないの?香さん本当に本省人なの?」
「余計なお世話よ」
「なんてね、俺も一昨日初めて渚さんの家で見せてもらった。感動したよ。今日のマドンナは売れない歌手リリーを演じる浅丘ルリ子だったんだ。集落の人たちが言うには、歴代マドンナの中ではリリーが一番、寅さんと結婚する可能性が高かった」
「今の話は何から何まで理解できないけど、今日あなたがそれをとても楽しみにしていたということは分かった」
「じゃあ俺が、その点でも満海の連中に腹を立ててるのも分かる?」
 香はお義理に笑った。
「寅さんには妹がいてね。まだ二作しか観てないから偉そうなこと言えないけど、車寅次郎にとって本当のマドンナは実はこの妹だったんじゃないかと―」
「船戸くん」彼女は口を挟んだ。その映画に関する基礎知識は全くなかったが、少なくとも今は現実とフィクションを混同したまま「妹」について彼に語らせるべきではないと思った。
「寅さんの話はこの件が落ち着いたらゆっくり聞かせて。何なら一緒に観ましょう」
 旅人は口を閉じた。自分のお喋りを遮られたことに、自身でも理由の分からない安堵を覚えた。隣に横たわるこの勝気な女性は、長い時間をかけて心を固い殻で覆いながらも、その中心には今も捨て切れなかった優しさを宿しているのだと感じた。男は礼儀として、同じ質問を女に与えた。
 女は三秒待って答えた。船戸くんの協力が必要ね、私がしたいことは。
「金ならないよ」
 香は首を振り、早口で一気に喋った。
「そんなものいらないわよ。あのね、もし差し支えなければ、服を脱いでくれない?裸で抱き合って欲しいの」
「ーさっき言ったけど」船戸の動き始めた唇を、香の唇が遮った。
「挿入なんてしなくていいの、どうでもいいよそんなの。私、今まで何十人もの男と寝てきた。でもね、好きな人と肌を重ねる瞬間の喜びとか、そういう感覚を味わったことはただの一度もなかった。男の人を好きになることはもうないし、今日会ったばかり船戸くんに対しても特別な感情はない。ただ、私たちだって明日まで生きていられる確証はない。だったら死ぬ前に一度ぐらい、苦しい時間を共に過ごして、少しは心も通わすことができたと思えた男と肌を重ねて、それがどういう感じなのかを知っておきたいの」
 船戸はしばらくじっとしていたが、やがてゆっくりと上半身を起こし、服を脱ぎ、下着を取った。
「昼に新井から蹴られた肋骨、たぶん折れてる。乗って動いたりはしないでね」
「バカ」
 香は笑いながら泣いた。涙を隠すように服を脱いだ。二人は割れやすい陶器を持つように、お互いの体にゆっくりと触れ、そしてぎこちなく抱き合った。
「感想は?」
「想像以上」
 女は男の首筋に鼻を埋め、しばらく静かに嗚咽した。やがて顔を上げ、涙の筋を頬に残しながら、男に笑顔を向けた。
「船戸くんの感想は?」
「右に同じ」
「―ねえ、いろんなところ、触っていいよ」
 彼はそうした。それでも彼の体の一部にはいささかの変化も現れなかった。香がそこに手を伸ばす。
「ーちょっと、それはやめて」
 船戸にも自尊心はあったが、香は構わなかった。
「さっき私、何十人もの男と寝てきたって言ったでしょ。それでも絶対に応じなかったことがあるの。男の人のこれに触ったり、口に含んだりすること。寝た男は一人の例外もなく頼んできたけど、一人の例外もなく拒んできた。レイプで人生を奪われた女が男根への嫌悪感を保ち続けるなんて、いかにも安っぽい心理学者が喜びそうなネタみたいでシャクなんだけど、事実だからしょうがない」
 初めてよ、自分から触りたいと思ったのは。
「船戸くん、この件が片付いたらどうするの?」
「何も決めてないよ」
「少なくとも私からは逃げた方がいいね。私、いつか阿部定になるかも知れないから」
「アベサダ?」
「知らない?」「うん」
「知らなくていいわ。百年以上前の出来事だから」
 
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