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長編小説「平壌へ至る道」(26)

 議長は鼻息だけで笑った。
「君がそれを危機だと認識するのなら、そうなるだろうが、そもそも君はこの国の司法権を嘲笑う場所や組織の中で呼吸してきた男だ。今更警察が君の元にやってきて、事情聴取に応じるよう求めたとしても、そんなものは鄭相慶にとっては痛くも痒くもない事態であるはずだ。ただ面倒だろう?それだけの話だ。警察ってのはハイエナのようにしつこいからな」
「とりあえず俺の元山旅行はなくなったってことか?」
 警官の読心術をもってしても、その表情から若者の胸の内は読み取れなかった。
「そういうことだ。この後のことは君自身が決めてくれ。大阪に帰るのに抵抗があるなら、俺の生家がこの県内の山奥にある。そこでしばらく身を潜めてもらってもいいし、他の場所に移るなら当座の金は用意する。それこそ布施の件で近くの派出所に出頭してもらっても構わない。但し、俺たちが画策していた元山での日本人人質の奪還および、その後に続くテロ行為については一切他言無用だ」
「それは最初の約束どおりやろ」
「分かってくれているのならいい」
「とりあえず中止に至った事情だけでも教えてもらおうか」
 議長は話した。
 
「で、あんたたちは解散か」
 短い話だった。伊勢さんの兄が亡くなったようだ、とだけ伝えれば充分だった。
「そういうことになるだろう」
「なあ、議長さん。伊勢さんの兄貴をそれまで閉じ込めていた招待所から連れ出し、死刑なりどこか別の収容所送りにするなり、そんな措置を打てる人間ってのは、向こうでは誰になる?」
 議長はしばし考えた。平壌の朝鮮労働党幹部だろうな。
「じゃあ、そいつらが発令する命令は、何を原則的な準拠としてる?」
「主体思想、そして党の十大原則だろう」
「それはあの国の憲法やあらゆる法律を上回るものやね?」
「あの国に法律があるとすれば、だがな」
「その主体思想は、誰が編み出した?」
「金日成だ」この若者は一体何を言い出し始めたのだろう?
「つまり、誰かが何かを行う時は例外なく、それが主体思想に照らし合わせて整合性のあるものか否かをまず確認し、実行にあたってはその事前許可を取らなければならないということやな?言い換えれば北朝鮮の一連の拉致工作もまた、完全にこれが国家権力によって予め認められていると考えてええ訳やな?」
「認められているというよりはむしろ、積極的に鼓舞されているだろう」
「その国家権力とは、つまり?」
「ー金日成自身に他ならないな」
 相慶は口元をゆるめ、しばらくその表情を保ち続けた。
「そういうことや。だったら直接、金日成に文句言いにいったろうや」
 
 さすがの議長も、直ぐに返事はできなかった。
「どうやって?」
「あのおっさんの自宅に赴いて」
「なるほど、それは素晴らしいアイデアだ。今までどうして世界中の反共組織の誰もがそれに思い至ることがなかったのかね。では聞こう。彼が通常どこに住んでいるか、誰が知っている?」
「KCIAなら掴んでるやろ」
「韓国中央情報部か。なるほどなるほど。で、君が今からソウルに飛んで、KCIAまでひょこひょこ歩いて行って、数万分の一の手違いによってその建物の中に入り、どこかの部屋をノックして、すみませんがあの三十八度線の向こうに君臨している王様の住居を教えてもらえませんか、とそう頼むってことか」
 若者は備えつけの冷蔵庫に入っていたオレンジジュースを取り出し、飲んでもええかと尋ねた。返事はなく、彼は勝手にそれを手に取り、勝手に蓋を開けながら、ソファへと戻った。
「オマエなかなかオモロイ奴やな、と教えてくれるかもしれん」
「その前向きな姿勢は見習いたいがね。こちらとしてはもう少し地に足のついた案が有難い。トルーマンを知っているか」
「もちろん。祖国の横綱級の敵役として、愛する母校で何度もその名を教え込まれた」
「彼は冷戦時代の黎明期、何度も金日成の首を取ろうとしたが、どうしてもそれを果たせなかった。朝鮮戦争の際には、最終手段として平壌への原子爆弾の投下まで考えていたんだ。ソ連、中国、そして国際世論の反発と天秤にかけてまで実行するにはペイも乏しいと判断したのだろう、最終的にその計画は流れた。アメリカの国力をもってしても、その首都を丸ごと焼け野原にでもしない限り、あの男の命を物理的強制力で排除することはできなかった」
「韓国も失敗続きやったな。朴正煕も色々と頑張ったけど」
 韓国軍の制服に身を包んだ朝鮮人民軍一二四部隊所属の三十一名が米韓連合軍歩哨所の真横にあった鉄条網を堂々とこじ開け、北緯三十八度線沿いの休戦ラインを超えて南進し、そのままソウル市内に侵入した「青瓦台事件」は一九六八年一月に起こった。
 三十一名の行軍を不審に思い彼らに話しかけた結果身柄を拘束され、自分たちのことを他人に喋れば家族もろとも殺害するという脅迫と共に解放された一市民の勇気ある事前通報により、北の軍人は大統領府のある青瓦台にまで辿り着くことは出来なかった。
 一国の首都における激しい銃撃戦。テロリスト側のうち、二十九名が射殺され、一名が自爆、残った一名は転向した。
 待ち構えていた韓国側の被害は更に甚大で、流れ弾に当たった市民も含めて七十名近い死者を出したにもかかわらず、事件の概要も背景も韓国国民は直ぐに知らされることなく、数日後、たった一人の生き残りで、後に転向しソウルで牧師となる少尉がテレビカメラの前で語った言葉が、彼らに深い衝撃を与えた。
 「自分たちは朝鮮民主主義人民共和国からやってきた。アメリカ帝国主義の傀儡であり、軍事独裁政権の長である朴正煕をこの世から排斥すれば、韓国民衆は我々の赤色革命に必ず同意してくれるものと信じていた」
 骨の髄まで軍人であり、自らも軍事クーデターにより国家元首の地位を獲得した時の韓国大統領、朴正煕の怒りは凄まじく、目には目をという兵士の鉄則に従い、彼は平壌に逆侵入し、金日成の首を掻き切ってくる部隊の創設、育成に心血を注ぐようになっていく。

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