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「平壌へ至る道」(29)

 あえぎ声がやんだ。
 白特務上士は娼館の前で恐怖がじわじわと怒りに転化していくのを覚えていた。
 人間は誰かまたは何かに脅された後、怯えた精神を回復させるため、無意識のうちに栄養剤をそこに注ぎ続ける。その最も手近な原料が、怒りという感情だ。
「日本人はうまくやったようだね」
 外に出て話しかけてきた女将に、特務上士は冷えた視線で応じた。俺たちの誰もが相手にされなかった高値の花が、再び狂ったようなあえぎ声を周囲に響き渡らせる。白成範の屈辱感は更に高まった。
 昨日、覚醒剤工場の前で睨んでやった時、あいつは俺のような若造にまで媚びへつらうような笑顔で応じた。今の日本人の象徴のような、あの笑顔。
 白成範に限らず、そして北と南の別なく、半島の人民はある種複雑な感情を日本人に対して抱いている。絶対的な嫌悪と、そして―認めることは大変な屈辱なのだが―いくばくかの敬意。
 祖父たちから聞く大日本帝国の軍人は誰もが恐ろしく厳格で、恐ろしく無慈悲で、恐ろしく効率的だった。それが彼にとっての、そして大部分の朝鮮人民にとっての日本人像だ。その殲滅を願うほどに憎みながら、そうした感情の隙間に憧憬という色が小さく染まってしまうのが避けられない、あの連中。
 統治時代、朝鮮人民に対して愛想笑いなど絶対にしなかった連中が、僅か五十年でどうなってしまった?
 つい十五分前まで抱いていた、そんな日本人へ対する軽蔑と失望が、一瞬で瓦解した。微かに訛りはあるものの、あれだけ流暢な朝鮮語を話す以上、あのヤマダという男は恐らく在日朝鮮人、張中尉が昨朝冗談めかして言った通りの僑胞なのかもしれなかった。僑胞は半島に暮らす朝鮮民族にとって、もはや日本人と同等の存在だ。
 撃てるものなら撃ってみろという言葉も、撃ち損じたら首の骨を折るという言葉も、単なるハッタリとは思えなかった。そして、あの蹴りのスピード。朝鮮人民軍の必須科目、テコンドーの授業でも、あれだけの蹴り技を見たことはなかった。そこにはまさしく、厳格で無慈悲で効率的な、想像の中に息づく敵国軍人の姿があった。
 自分はそれに対して怖気ついた。二十分姿を隠せと命じられ、その通りにした。戻って来る際に銃弾を打ち込む機会はあったのに、実際に行使することはできなかった。次に何をすべきか、自分で決定できなかった。
 チョッパリ野郎。
 ソラの部屋が静かになった。射精を終えたのだろう、衣服もまだ身につけてはいまい。男が最も無防備でいる時間帯だ。
 池下士に告げた。「あの野郎を拘束する。抵抗すれば殺す。行くぞ」
 白成範は、今度は突撃銃をしっかりと両手に携え、安全装置も外し、いつでも撃てる体勢を整えた。上司への報告は後から考えればいい。
 女将が何か叫んでくる。無視した。
 建物の中に入り、慎重に歩を進め、目的の部屋の前までやってきた。池下士と頷き合う。初めての実戦に部下の顔は蒼白となっているが、それは俺も同じだろう。心臓の音が脳蓋の奥で脈打ち、この鼓動が目の前の部下に聞こえませんようにと祈りながら、無声音で囁いた。
 ハナ、トゥル、セッ―ドアを蹴破った。
 部屋になだれ込み、からからに乾いた喉を振り絞るようにして叫んだ。「動くな!」
 男はいなかった。
 ベッドでは裸の女がうつぶせになっているだけだった。白は女に銃を突きつけ、同じ言葉を繰り返した。池が強張った表情のまま、ベッドの下をチェックした。溜まった埃があるだけだった。
 起きろ!特務上士は女の後ろ髪を引っ張った。のけぞった彼女は、そこでようやく若い兵士の姿を認めたように、シーツを胸元で引っ掴みながら、きゃあと一声上げだ。
「何なの、一体何なの?」
 特務上士はヒステリックに喚く女を平手で打った。
 部屋を見渡す。壁の上部に掲げられた金親子の肖像画が自分の失敗を咎めるように見つめてくる。
 白はゆっくりと銃を上げ、その先端を裸の女に向けた。「チョッパリ野郎はどこに消えた?」
「知らないわよ。終わったら締め落とされて、気がついたらあんたたちが目の前で怒っている。何が起こっているのか私が聞きたいわよ!」
 あれだけの蹴り技の持ち主だ、女を気絶させるぐらい小指一本でやり遂げるだろう。
「どんな話をした」
「ねえ、私が今裸で、何の抵抗も出来ないことはわかるでしょう?銃を下ろして、お願いだから」
「嘘をつくなよ」
「つかない、約束する」
「やっている最中、あいつは何か言っていたか」
「咸鏡北道の羅津や先峰について何か知っていることはないか、と。何も、と答えた。だって本当に私は何も知らないもの」
 白は銃口を下げた。他には?
「この建物に裏口はあるか、と尋ねられた」
「オマエは何と答えた」
「廊下の窓は半分以上ガラスが入っていない。全てが裏口のようなものよ、とだけ」
 そこに女将がやってきて、兵士を詰った。「破壊された扉の修理代は誰が払うんだい?」
 誰もが「党に従順である限り高水準な生活を享受できる」この地上の楽園で、日常に何の不満も持ちようのないこの発達した共生社会で、警察や軍に楯突く民間人は、ほとんど自殺希望者と捉えられても仕方がない。
 しかし外貨を稼ぐ立場にある者なら、話は変わってくる。党の上層部に顔が効く者なら、話は変わってくる。
 祖父の親族に「越南者」がいる女将は、元々「動揺階層」に属し、非合法ビジネスのマネージャーという職業も、北朝鮮版カーストの中にあっては決して明日が保証された身分ではない。しかし彼女にはルーブルがあり、人民元があり、本物の米ドルがあり、日本円があり、門外不出の顧客リストがあった。女将はなおも食い下がり、白に尋ねた。
「あんた、たかだか特務上士の分際でしょうが。後で第二十四師団様宛に請求書を送るか」彼女の言葉は途中で掻き消された。
 白の発射した銃弾は女将の左耳鼓膜にひゅん、という余韻を残し、背後の壁に塗られた劣悪なモルタルを砕いた。
 交渉終了。
 部屋は再び三人となった。白は部下に命じた。
「裏から外に出て、チョッパリ風の男が現れなかったか、目についた奴ら全員に聞いて来い」
 敬礼し、池下士が雑踏へと飛び出していく。
 売春宿の部屋の中で一糸まとわぬ女と二人きりになった白の目の色が変わるのに、チャンスクは気付いた。見慣れた男の目だった。
「オマエを軍法裁判にかけることもできる。間違いなく銃殺刑だ」
「そう。じゃあひと思いにここで撃ってよ」
「オマエが締められ気絶していたことは、俺が証言してやってもいい」
 次の言葉はもう分かっていた。女は無言で胸を押さえていたシーツを床に落とし、身を横たえた。
 男という生き物は本当に馬鹿だ。こいつが今最優先でやるべきことは、あの日本人を探すことではないか。下水道を利用した地下通路の存在を拷問してでも私から聞きだすことではないか。しかし裸の女を目の前にすると、あらゆる男は優先事項を簡単に入れ替えてしまう。
 まあいい、これであいつも無事元山駅にまで辿り着くことができるだろう。
 
 激怒した張中尉は白特務上士と池下士をライフルの砲身で殴りつけ、二人はもんどり打って倒れた。
 「もう一度繰り返す。オマエたちはあのチョッパリが淫売宿にしけこんでいる間、観察を怠り、逃げられ、姿を探したが見つからず、こうしてのこのこと帰ってきました、とそういうことだな?」
 土下座する二人の部下の後頭部を踏みつけ、張は電話をかけた。
 保衛部への回線は例外なく盗聴されている。中尉は用件だけを告げた。
「趙秀賢副局長兼捜査官はいるか」
「今出かけている」
「人民軍第二十四師団の張だ。折り返し電話をくれ」
 三十分後、中尉の電話機が鳴った。
「趙だ」
「ああ、スヒョン。悪いが今すぐ来られないか」
 何の用事だ、と受話器を通して尋ねる愚か者はこの国では皆、土の下だ。趙秀賢-チョ・スヒョンは一言で答えた。分かった。
 
「するとオマエたちは、日本のヤクザ組織からの訪問者を平壌に知らせることなく受け入れ、逃げられた訳か」
 朝鮮人民軍元山特別軍区第二十四師団の関係者たちが発散する粘着質の汗が、部屋の湿気まで高めていくようだった。窓際に立つ趙秀賢は、見るからに意気消沈した張中尉に正面から相対し、冷静な口調で客観的事実を述べ続けた。
「バレたら、この部屋にいる全員が死刑だ。銃殺の名誉は与えられないだろう。この人数なら、ちょうどトーナメントにぴったりだ」
 張中尉、崔少尉、白特務上士など、八人の兵士が一斉に顔を上げ、一斉に下げた。通訳の瞼は激しく痙攣している。
 朝鮮人民軍で重大な任務に失敗した兵士、上官に逆らった兵士、その他何らかの看過しがたい問題を起こした兵士は、ある程度の人数が集まった時点で、とある場所に集められる。そこには大きな机があり、その上には分解された短銃が二つ置かれている。
 係員の号令と共に、二人の罰則対象者は震える手で銃を組み立て、先に仕上げた者は、遅れた者めがけて引き金を引く。運が良ければ弾は真っ直ぐ前に飛び、運が悪ければ銃は暴発する。いずれにしてもそこで一人が消え、一人は数分間、寿命が延びる。
 一回戦を勝ち上がった者は二回戦へと進む。
 三回戦、四回戦。
 最後まで残った一人は放免となるが、その時点で多くの者が精神を崩壊されており、たとえ軍に戻っても使いものにならず、結局近いうちに同じ場所に来ることになる。
 しかし千人に一人ほど、そうした修羅場をかいくぐり、他人の殺傷に何の躊躇も痛痒も感じなくなる、一般市民としては不適格者だが兵士としてはモンスターとなる者が誕生する。そんな北朝鮮という国でしか産み出されることのないターミネーターに様変わりしそうなポテンシャルは、少なくともその部屋でうなだれる八人からは感じ取れなかった。
「トーナメントを避けたいなら」
 趙秀賢は檄を飛ばした。警察機構に属する者が、団体や階級の垣根を超えて軍属者へ命令口調で話すことは、本来この国では有り得ないことで、有ってはならないことでもあったが、気にする者はいなかった。
「オマエたちは何が何でもそのチョッパリを確保するか、知恵を出し合って今回の騒ぎを正当化するストーリーを考えねばならん」

 元山郊外の仲坪里に生まれた趙秀賢は中学卒業後、十年間兵役-最後の二年は自ら志願し延長したーに就き、そこで素質を見込まれ、朝鮮民主主義人民共和国国家安全保衛部の一員となった。
 保衛部の主要任務は国内外に散らばる政治的反動分子の摘発だが、現実にそこまで反動分子がこの世に存在するはずもない。
 彼らの活動は、かつては本当に、本当に全国民が等しく幸福感を共有できる楽園の建設への使命感で満ちていたはずの青年金日成が、度重なるクーデター、度重なる政敵との暗闘によって一介の独裁者へと変節していく過程に歩調を合わせるように、歪んだものへと変化を重ねた。
 第二次世界大戦終結後、権力の空白地帯となった朝鮮半島に戦勝国アメリカが南から、ソ連が北から入ってきた時点で、近い将来この地が東西対立の代理戦争の場となることは分りきっていた。
 朝鮮戦争の交戦期間、共和国全人民にとって共通する敵は南朝鮮であり、アメリカだった。
 内戦が建前上終結すると、一枚岩だった各組織は、次なる敵を求めて彷徨い始める。
 金日成の支持母体であった満州出身の抗日パルチザンに対して、東側諸国の首領、ソビエト連邦はその領土内に居住していた少数民族、朝鮮族を主体とした親ソ共産主義組織を協力団体として送り込み、両組織は戦前から半島内で活動していた共産主義者たちの総称、「国内派」をまず粛清し、続けて中国共産党の指導を受けた「延安派」を葬り去った。
 最後に満州派は、ソ連派の連中を消し去った。
 その過程で、こんなはずではなかった、と金日成自身も血の涙を流した夜もあっただろう。支持母体こそ違えども、同じ赤色旗の下、同じ夢を共有する仲間同士であったはずなのに。
 しかし、動き始めた歯車を止めることは誰にもできなかった。生き残った満州派でも内部抗争が始まり、全てを乗り切って最後までリングに立ち続けた金日成は、大病を患ってから対症療法を行うのでなく、その前に火種を摘出する予防医学の概念を、政治の世界に持ち込んだ。国民を出身や思想によって一人ずつ、文字通り一人ずつ五十一段階に分けてカテゴライズし、彼らが行動を起こす前に、自分の潜在的政敵を炙りだしていったのだ。
 各地に政治犯収容所が建設され、手始めに七万人もの「敵対階層」が収容され、二度と外に出てくることはなかった。
 保衛部もまた、その渦中で腐敗していった。国家治安の脅威となる勢力の摘発が純粋な使命だった組織は、いつの間にか金日成・正日による権力世襲への異議申し立て者を収容所に送り込むことがその主要任務となっていく。
 九十年代の北朝鮮における一般的な警察機構である社会安全部と、政治犯を取り締まる保衛部の垣根は曖昧なものとなり、共に人民から蛇蝎のごとく嫌われた。
 保衛部は一職員あたり五十人の「協力者」を民間人の中に散らしている。
 協力者は個別で二十人の監視を日常的に担当しており、従って保衛部員は一人で千人を掌握しているという計算になるが、面従腹背な人民は全体の半数をゆうに超えており、特に飢餓の進行が深刻化し、配給が実質的に停止された九十年代以降、こうした保衛部を中心とした水も漏らさぬ相互監視体制は殆ど崩壊していた。苦労して確保した協力者網から目ぼしい情報を以前のようには耳打ちされなくなった保衛部員は、より強権的、暴力的な手段で治安をコントロールせねばならず、それが更に彼らを裸の王様にしていくというスパイラルが各地で形成され、国内中に蔓延していた。
 一生を軍に捧げるつもりでいた趙秀賢自身にとって、保衛部からのスカウトは本意ではなかったが、それを断った場合の人生を想像すると、他に選択肢はなかった。
 息子が北朝鮮版特高の職員になったと知った時、家族の安全がより確実になるにもかかわらず、故郷の母親はむせび泣いた。しかし彼女は涙を拭いた後、自分の腹を痛めながら産んだ子の肩に手を置いて告げた。
「おめでとう、立派な仕事じゃないの。敬愛する首領様と親愛なる指導者を、命に代えてでもしっかりお守り」
 生き残るために誰も聞いていない会話の中でさえ、母が子に心にもない言葉を伝えなければならない己の仕事を、趙はその時初めて憎み、このような組織を生んだ社会を憎み、このような社会を構築した金日成を憎んだ。
 自分は純粋な共産主義者だが純粋な主体思想支持者ではない、だから自分の社会的肉体的生命は常に崖っぷちにある、という意識から、彼は常に慎重な言動を己に課してきた。
 多くの同僚が、人の皮を被った獣へと変貌を遂げていった。もともとそうした素養のあった者もいただろうが、自らの職分に対する日々の強烈なストレスが、善良だった男に常軌を逸した暴力衝動や性衝動を植えつけてしまった例は星の数ほどあった。
 彼らは給料が少なくとも、あらゆる原始的欲望を無償で手に入れる特権を有していた。腹が減れば市場に出向いて誰かを脅せばそれで済んだ。女が欲しくなれば視察名目で収容所に赴き、誰彼構わずレイプした。
 趙にも明らかな政治犯を逮捕した経験はあったが、無用な暴力は一切使わず、誰かを陥れることだけを目的とした密告に対しては、最初から耳を貸そうともしなかった。女性を力づくで犯したこともなく、同性愛者じゃないのかという噂を立てられたのも一度や二度ではないが、それが労働教化刑を下され社会的身分を剥奪されるレベル―同性愛の志向自体は九十年代の北朝鮮では違法でも合法でもなかった。同性愛という概念自体が「この国に存在しないもの」とされていたからだ。しかしそれが「退廃した西側の文化風俗を生活に持ち込んだ罪」として起訴される恐れは充分にあった―で広まる場合でない限り、相手にもしなかった。
 平均よりは優秀な治安要員だったが、飛び抜けて切れ者という訳でもなかった男は、ただただ小心者だっただけだ。仮にこの国の政治体制が崩壊すれば、真っ先に民衆から小突き回されるのは金王朝一族でもなく朝鮮労働党幹部でもなく、傍若無人に振舞ってきた各地の保衛部員であることを知っていた彼は、民衆の怒りを恐れた。男を見れば殴り、女を見れば犯す。そんな組織が、そんな人間が、いつまでも生き残れるはずがないことに、なぜ誰も気付かないのか、気付こうとしないのかが不思議でならなかった。
 そんな生まれついての性質が、やがて彼の人生を大きく変えることになる。

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