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「平壌へ至る道」(30)

 元山に賄賂を受け取ったことも、協力者や被疑者を殴ったこともない変わり者の保衛部員がいる、という噂は平壌の幹部の耳にも入っていて、金正日の遠縁にあたる国家安全保衛部第一副部長がとある場所で行った幹部職員の研修会で、趙秀賢の革命精神に学べと一席ぶったのだ。
 副部長の言葉は金正日の言葉でもある。趙はその日のうちに八階級特進という異例の出世を果たし、元山地区の統括責任者となった。
 出る杭は打たれる。趙は更に慎重に振舞う必要があった。小さな言動上のミスは即座に白日の下に晒され、悪意をもって解釈される。
 事実、彼を引き上げる役割を果たした第一副部長は、この公表されることのなかった「パンチョッパリ工作員落書き事件」の八年後のある深夜、党幹部による酒宴の席で金正日が『喜び組』のホステスを両腕に抱えながらアリランを歌っている最中に居眠り―二晩に渡って明け方まで付き合わされれば、誰でもそうなる一瞬はある―をした廉で、その人生で最後に口にしたものが砒素となった。
 中央からは自浄作用の成果として、保衛部に潜り込んでいる「はず」の走狗、即ちスパイを差し出せという指令が毎年度のノルマと共にやってくるが、趙は統括責任者としての初年度、これを拒否し、代わりにこう答えた。我が元山地区の保衛部隊は一人残らず金日成主席、金正日将軍に最後の血の一滴まで忠誠を誓う者たちである。
 平壌の保衛部監査チームは当然のように激怒し、趙秀賢こそ収容所送りにすべき走狗であるという意見も不可避的に出たが、では誰がそれを彼に、金正日をバックに控える男に伝えるのか、という段に進むと、途端に沈黙した。
 その年、定年退職者を除き、元山の保衛部から姿を消した職員はゼロだった。趙は部下の心からの信任を受ける、北朝鮮で数少ない管理職となった。
 能力が環境を導くのは自然の摂理だが、環境が能力を引き上げる例もある。係官としての技量は平均値よりやや上という存在でしかなかった趙秀賢はしかし、責任者になるや、意外な外交手腕を発揮することになった。
 一九九二年の冬、北朝鮮側の江原道南部の海岸沖で、ゴムボートに乗った大韓民国国軍の下級兵士が拿捕された。
 北侵の意図をもった隠密行動の結果ではなく、単なる演習中の事故だったことが取り調べで明らかになり、南鮮の卑劣なスパイ行為を内外に広く宣伝し、韓国兵士に重い拷問を、さもなくば処刑を、と訴える古参部員たちの主張を、趙は初めて撥ねつけた。
 彼の指示で兵士は手厚く処遇された。日当たりのよい清潔な部屋に移され、一日三度の食事は北朝鮮人民の平均より豊かなものが与えられた。
 翌年の春、韓国大統領金泳三は、一九六〇年に韓国内で逮捕し、その後長期に渡る拷問や拘留にもかかわらず非転向を貫いていた北朝鮮スパイの、同国への送還を決定した。韓国国内では大統領が北に膝を屈したという批判も上がったが、その裏で北側からも一人、兵士が返されたという事実は公表されなかった。
 平壌に戻った非転向スパイが英雄として迎えられ、華やかな凱旋セレモニーが国威発揚の気運を大いに高めた一方、秘密裏にソウルに戻った大韓民国国軍の下級兵士は、自分が北で趙秀賢という治安組織幹部から意外なほど人間的に扱われたと証言し、その結果、韓国から北朝鮮への物資援助の増量が内容非公開で決定された。
 趙秀賢はまたも株を上げたが、本人は強く自らの降格を申し入れた。
 結果的に今回は何の問題も起こらなかったが、我が国の領土に侵入してきた南朝鮮傀儡軍の兵士は本来、問答無用で射殺すべき仇敵であり、彼を生かしたことで、もし元山の町が火の海に包まれるような結果になっていたら、私は千代先の子孫まで罰を受けなければならなかったはずだ、と。
 趙の主張は受諾された。まさに階級なき社会の申し子のような男だ、気に入った、平壌に呼べ、そんな言葉が某者より発せられる恐れもなきにしもあらずだったが、結局彼は保衛部の中で最も金正日が大切にしていると言われている、「捜査局」の副局長、という上級職としての肩書を与えられながら、実質的には一介の調査員という立場に戻り、今日に至っている。
 同性愛という概念が存在しないのと同様、北朝鮮には「友人」という概念も殆ど存在しない。三人集まって立ち話をすれば連行される社会において、誰かと個人的な親交を深く結ぶというのは、それだけで粛清対象となるリスクを高めることに他ならないからだ。
 趙秀賢はその例外だった。彼と友人であることは、絶対とは言えないまでも将来に不安の影を挿す蓋然率は極めて低い。彼の周囲には人が群がり、朝鮮人民軍元山特別軍区第二十四師団長、張仁錫中尉もその一人だった。
 趙が軍に所属していた頃、二人は同じ師団で三年を過ごした。年齢が一緒という事実が相互にある程度気楽な会話を許したものの、特に気脈が通じていた訳ではなかった両者は、顔を合わせれば二言三言会話はする程度の関係だったが、趙が保衛部内で権力の階段を上るようになって以来、張仁錫は彼を昔からの親友であるかのように吹聴しはじめ、その関係性は今日まで続いていた。
 元々人民軍と保衛部は水と油の関係だ。共に首領様からの寵愛の深さが年間予算に跳ね返る組織である以上、自分たちの忠誠心の厚さを、この二者は常に競い合うようにして実施してこざるを得なかった。
 そして今、保衛部のカリスマは、敵対とまでは言わなくとも良好な関係とも言えない組織の建物内で、自分の第一の親友を自称する男の泣きそうな顔を横目に、今後の指示を重ねていた。
 これこそ保衛部本来の職務だ。罪なき人民を痛めつける仕事は、もうウンザリだ。

「白特務上士」
 趙秀賢が呼びかけた相手は、既に自分の処遇を覚悟したかのように青白い表情を強張らせていた。
「はい」
「男の朝鮮語は、どの程度のレベルだった?」
 白は俯きながらも断言した。「僑胞よりはずっと自然な朝鮮語でした。また奴が買った淫売に尋問したところ、咸鏡北道の羅津や先峰について、何か知っていることはないか、と聞かれたそうです」
 その言葉に張中尉は顔を上げ、咳き込むように被せてきた。羅津の件は昨日の昼、奴に話した。
「どういうことだ?」
「そんな顔をしないでくれ、スヒョン―いや、趙副局長兼捜査官。ちょうどその日、まさにオマエたち保衛部の本丸から連絡が来たんだ。日本からの在日ないし脱北者の男二人が我が国に不法入国し、羅津、先峰の経済特区で何らかの破壊活動を目論む恐れがある、という情報を」
「それは俺の所にも来た。いつものガセネタと取り合わなかったが。オマエはそれをヤマダにぶつけたのか?」
「ああ、あいつが呑気に海鮮料理を食っている時に、不意打ちでな。そこに動揺の色を感じたら、趙捜査官に報告するつもりだった。これは本当だ、信じてくれ」
「その時のヤマダの反応は?」
「落ち着いたもんだった」
 顔から血の気を失って久しい崔が、隣で頷いた。
「その情報の日本からの不法入国者とヤマダは同一人物だと思うか?」
 張中尉は首を振った。俺にはもう分らない。
「ただ、全く同じ時期、日本から非合法員が別々に潜入してくるなんて出来過ぎた話だ。ヤマダが本当に在日ないし脱北者なら、北訛りの朝鮮語を使いこなしているという事実にも説明がつく。陽動作戦かも知れないが、今回の件と全く無関係とは思えない」
「俺も賛成だ」
 趙の言葉に、中尉は安堵した。それで自分の明日が保障されるはずもないのだが、今の彼はどんな小さな物事にも縋りつきたい心境だった。
「だとすればもう一人の男はどこに消えたのか。ところで特務上士、女はどうした?」
「女、ですか?」
 趙は机をこつこつと苛立たしげに叩いた。
「我々には時間がない。ジャンマダンの売春宿にいた女だ。証人として当然身柄は拘束しているものと思うが、彼女はどこにいる?」
 白は午前中を共に過ごした部下の兵士を盗み見た。蝋人形のように生気を失った池下士は一切目を合わせてこなかった。時折痙攣するまつ毛だけが、彼の生命の兆候を外部に示している。
「トンム、どうした?」
「-見失いました」
 周囲が一斉に立ち上がった。どういうことだ?
「チョッパリが裏口から逃げたと聞いて、二人で後を追いました。奴を捕まえること、場合によっては殺害することが最優先と考えたのです。しかし残念ながら見つけることはできませんでした。娼館に戻った時、女も消えていました」
 それは事実に反する証言だった。ヤマダを追跡したのは部下だけで、その時間、白は女の腹の上にいた。
 
「いく、いくっ!」
 女は弓反りになって、シーツを掴んで放り投げた。白特務上士もその時ばかりは自分の風前の灯火のような命運を忘れかけていた。上司の誰もが征服できなかった女の中に、今自分は入っている。
「淫売の分際で一人前に感じているのか?」
「いい、いい、やめないで!」
 女は白の脱いだ衣服も掴み、これも放り投げた。一部がガラスの入っていない窓枠から外に消えた。兵士の腰の動きが止まった。
「どうしたの?」 女が身を起こしてきた。
「馬鹿、オマエが俺の服を外に放り投げたんだよ!」
「ごめんなさい」女は跳ね起き、衣服を身に纏った。「申し訳ないけど、取りに行ってもらえる?そして戻ってきたら、また最初からやり直しましょう。お互い服を脱がせ合うところから」
 そして続けた。凄く上手なので、商売抜きで感じちゃった。
 白特務上士は外に出て、服を拾って土を払い、部屋に戻った。
 女の姿は消えていた。
 
 三十分以上経って、部下が首を振りながら帰ってきた。「駄目です、見つかりません」
 特務上士はパニックに陥った八つ当たりを、池下士にぶつけた。
「ふざけるな!もう一度探してこい!」
「しかし、師団へ戻る時刻を、既に過ぎています」
 白は銃を手にして、安全装置を外した。
「反抗する気か?オマエはいつから将軍になった?」
 
 白成範はその最後の行為を今、激しく後悔していた。あれで奴の怒りを買ったはずだ。
 こいつは密告するだろう。
 この国では予感は悪い予感しかなく、それは往々にして当たる。
 池下士が青白い顔のまま立ち上がった。
「白先輩は今、偽証しました。チョッパリを探したのは私だけです。その間先輩はあの淫売と性行為に及んでいました。そして何らかの理由により、私が部屋に戻った頃には女にも逃げられていました」
 湿気が壁を濡らす音まで聞こえそうな沈黙が、部屋を充満した。張中尉の咳払いがその静寂を破った。
「白、今の話は本当か」既に呼称は失われていた。
「-本当です」
 中尉は趙秀賢に向き直った。
「スヒョン―趙副局長。こいつへの処罰に関しては、我が人民軍の問題だ」
「その話は明日以降、内々でしてくれ。今日の間は、彼は必要な戦力だ」
 副局長は汚れてもいない制服の肩部分を強く払いながら続けた。
「逃亡した男は高い戦闘能力を持ち、女も機転が利く。白トンム、池トンム、その男女はもともと知り合いだった可能性もあり、そうなれば今後も行動を共にするだろう。両名の最新の人相を知っているのは君たちだ。ここまで騒ぎを起こしたからには、彼らはこの町から高飛びせざるを得ない。今から元山駅に急ごう。改札で一人ずつチェックをかけ、この速度戦を完遂し勝利を収めるんだ」
 
 軍事務所に残された通訳の崔は、趙中尉の指示に従って安田に国際電話をかけた。可能な限りヤマダの情報、人着を仕入れておけ、という指示がなくとも、強い苦情を伝えるつもりだった。
 三分以上待たされ、ようやく回線が繋がった。「ヤスダ興産」
「金剛山通商の崔だ。安田を出せ」
 電話の向こうで数秒の沈黙があった。ちょっと待ってろ。
 更に一分待たされた。
「安田だ。こっちからも電話をかけようと思っていたところだ、俺の送った酒は飲んでくれたか?」
 安田にとって、それは想定通りの連絡だった。北の崔から電話です、かなり苛立った声です、と部下から報告を受けた瞬間、最も困難な途を潜入工作員が選択したと悟った。さすがだな、鄭相慶。
「貴様の送ってきた日本酒は、とんでもなく不味かった」
「その酒なんだが、あれはもともとこちらのドッグブリーダーからの貰いもんだ」
 イヌ―警察が潜り込ませてきた裏切り者だった。
「そんな訳で崔さん、こっちもそんな酒を押し付けられた被害者だよ。ところでそのブリーダーは今、投資に凝っているらしい。どこかに確実な出資先はないかと、出発前にしゃあしゃあと尋ねてきやがった」
 イヌは経済特区に向かっているぞ。
「あとあの酒は、どうも朝鮮産の米が混ざっているらしい」
「日本酒の詳細をファックスしてこい、大至急だ」
「おいおい、あんたの会社にファックス機なんてないだろう。回線だって繋がるのか?」
「侮辱も大概にしろ。貴様の国にあって我が国にないものなど、一つとして存在しないんだ」
 崔少尉はファックス番号を告げようとして、思いとどまった。
 電話が盗聴されている以上、日本からのファックスの内容もまた、元山の朝鮮労働党本部に転送される恐れがある。というか寧ろ、それが必至だ。
 電話では日本酒の話をしていたはずなのに、なぜここには男性の顔写真が入っているのかと党担当者に詰問された時の回答は何が正解なのか。その進捗の方向性は、文字通り自身の命運を決する。
「なあ、崔さん、ファックスはまあいいんじゃないのか」
 安田の助け舟に、通訳は内心深く安堵した。
「貴様がそう言うのなら、まあいいだろう。とにかくあの不味い酒の特徴を教えろ、もう二度と飲みたくないからな」
「俺だってよく知らない。三十年もの、と言っていたような気がするよ。もう酒は処分したのか?」
「まだだ。しかし近いうちに処分する。あんなシロモノを送ってきたんだ、我が社は今後、貴様にチョソン最高級のカニは卸さないこととする」
「まあ、待ちなよ。あの酒は聞いたところ水に混じらないらしい。海に流しても溶けないかもな」
「―」
「ところで俺は最近、ラジオに凝っててね。毎日聞き続けてみるとこれが意外と面白くてな。ドライブ中も以前はCDであんたたちの言うところの西側の退廃音楽を聞いていたが、今はもっぱらラジオだ。今度俺も投稿してみようかなと思っている」
 ヤマダはいずれ日本に戻ってくる。そちらの情報を回収し、朝鮮中央放送に投稿してやるぞ、と脅しをかけてきたのだ。
「崔さん、今回は俺たちも被害者だ。これからも仲良く付き合おうや。カニの単価も、少しなら勉強してやるぜ?」
 どう答えるべきか判断できなかった朝鮮人民軍の少尉を嘲笑うかのように、電話は切れた。

(創作大賞2024の最大文字数14万を超えるため、以降は「平壌へ至る道 潜入編」をお読みください)

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