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「平壌へ至る道」(28)

 人民軍の少尉が話しかけてくるとは予想していなかった老婆は息を止めて目を見張った。
 驚愕を顔に貼り付けたのは、彼女だけはなかった。
 銃を握りなおそうとした監視役の兵士に、相慶はやはり朝鮮語で短く叫んだ。「動くな」
 若者は右手を止めた。
「オマエの名前は知ってるぞ、ペクソンボム。身分は朝鮮人民軍元山第二十四師団員。階級は特務上士」
 恐怖に顔を歪ませる若者に、相慶は畳みかけた。
「俺を撃ちたきゃ確実に仕留めろ。銃の命中精度が意外に低いことは知っているな?最初の一発を外せば、次に撃鉄を起こす前に、オマエの首の骨は折れている。その足で俺はお前の部下、池下士も葬ってやる。俺はそれで明日にでも銃殺刑だろうが、オマエたちの命と引き換えなら納得してやるよ」
 若者は立ち尽くした。屋台の老婆にそのやり取りは聞こえない。それでもこの国の人民が生存のために取るべき次の行動-その場からの速やかな逃避-を彼女もまた示そうとした。相慶はそちらを見ることなく告げた。「アジュモニ、逃げなくともいい」
 老婆もその場で硬直した。
「白トンム、昨日覚醒剤工場の前で、俺から一ドルせしめて靴の紐を結び直したな?今日はその倍やる。それでオマエの後をつけているはずの池下士と、どこかで雀でも食ってきて、ちょうど二十分後に戻ってこい。オマエには他に選択権はない」
 領土そのものが牢獄に等しい国家に生まれ、あらゆる自由を剥奪されながら育ち、ガチガチの指揮命令系統が全ての組織に毛細血管のように入り込んだ社会で呼吸してきた者は、自己判断に基づく行動は不得手だ。他に選択権はない、そう誰かに断定されれば、本能的にそれに従うよう刷り込まれてきたのだ。
 相慶は蹴りを放った。それは白の鼻先で止まったが、風圧が兵士の眼球を直撃した。
「立ち去れ」
 通り過ぎる者たちは、誰も視線を寄越してこない。娼館の女将も言っていた。
 何も見えません、何も聞こえません。
 そうして彼らは、今日もこの国で命を繋ぐ。

 二ドルを手にした若い兵士は雑踏に姿を消し、巻き添えに慄く老婆へと相慶は微笑みかけた。「悪かったね。怖かったろう?」
 制服の裾から、ちらりと金時計を見せながら。
 老婆は答えなかった。イエスかノー、どちらが自分の一分後を保証することになるか、判断がつかなかった。
「僕の詳しい身分は明かせないが、政府関係筋と思ってくれ。まずバッジを見せてくれないか。ちょっとした調査に必要なんだ」
 老婆は直ぐに出してきた。その手は激しく震えている。
「この中で最も出身成分が高いものを、五つ売ってくれ」
 アジュモニは口で息をしながら頷いた。
「そしてそれに見合う公民登録証を、やはり五つ。年齢は三十歳から三十五歳。あと、社会安全部発行の移動許可証があれば、それも」
 老婆は首を横に振った。「記載された移動許可証はありません」声が気の毒なほど波打っている。
「今はもう、国内の移動に許可証は必要なくなっています。食糧さえかついでいれば、そして安全部の旦那方に何か咎められたら、少し袖の下を渡せばそれが許可証代わりです」
 そう言いながら、彼女は過去のものだという白紙の移動許可証を二枚、登録証に付けてきた。こちらはサービスしておきます。
「ありがとう。アジュモニは安全部の連中が嫌いなようだね」
「め、滅相もございません!」
「いいんだ、人民の正直な気持ちを調べるのも、今回の僕の仕事だ。御礼を言わせてもらう」
 相慶はバッジと公民登録証を五つずつ、そして白紙の通行許可証を持参してきた袋に詰めながら値段を尋ねた。
「料金は頂きません」
「そういう訳にはいかない」五十ドルを渡した。
 老婆は息を呑んだ。本物の札であることは商売柄すぐ分かった。この店のひと月分の売り上げを超える額だった。
「これには口止め料も含まれる。後になってさっきの兵士がやってきて、僕が何を買ったかアジュモニを問い詰めるだろう。その時はこう答えてくれ。あの人は羅津、先峰にある経済特区の招待ビザがあるかと聞いてきた、今はないが二、三日待ってくれれば何とかすると答えたが、じゃあ他で探すとのことだった、と。もちろん本当のことを白状してもいいが、先刻のやり取りを見ていれば、どちらが裏切るべきでない相手か、自ずと明らかなように思えるがね」
 平身低頭した老婆は首が落ちそうな勢いで頷き続けた。

 二十分後、池下士を連れて戻ってきた白成範は屋台の野菜並みに萎れており、銃口をこちらに向ける気骨もないようだった。
「昨日の娼館、チャドゥまで案内しろ」
 兵士たちは言われた通りにした。
 十分ほど歩くと、見慣れた木造の建物が前方に見えてきた。空気の臭いが変わる。言葉が違っても、文化が違っても、その場所の持つ雰囲気は世界共通だ。
「二時間の滞在はオーバーするが、張中尉や崔少尉からの叱責は俺が受け持とう。オマエたちも遊びたいなら、代金は払ってやるぞ」
 若者二人は唾を呑み込みながら首を横に振った。
「そうか。じゃあ暫くここで待機しておけ」
 
 建物の中は、今日も精液の臭いが腐りかけた材木やカビの香りと混ざり合い、市場とはまた別種の異臭を重く漂わせていた。
 腕を組みながら出てきた女将は近づいてくる男を睨みつけた。
「昨日あの子に何吹き込んだ?」
 既に日本語を放棄している。
 相慶は百ドル札を二枚渡した。「迷惑料だ」
 海千山千の女は野良猫並みのハンドスピードでそれを奪い取った。
「それは前金だ。彼女を身請けさせてくれるなら、部屋にもう八枚、百ドル札を置いておく。それだけあればそこら辺のコッチェビから原石を見つけて磨くこともできるだろう」
 女は数秒の計算後、前歯を剥いたまま答えた。「更にもう十枚だ」
 その言葉に、ソラは既に自らの意志を女将に伝達済なのだと察した。

 部屋に入る。彼女はベッドに座っていた。
「俺に協力するなら、まず本名を教えてくれ。断るならここでお別れだ」
「平壌から中国への脱出方法があると言ったわね」
 女の言葉に、男は頷いた。
「それは確実な手段なの?」
「この国に確実なものなどない。百パーセントは保証できない」
 ソラは溜息をついた。「反革命分子の娘にされ、売春婦に身を落とした私が、この国で五年後も生きていられる確率と、どちらが高い?」
 相慶は即答した。「脱出を勧める」
 女は一旦下を向き、その時間が永遠に続くかと思われた頃、下唇を噛みながら顔を上げた。
「私の本名は、チャンスクよ」
 
 チャンスクはまず、相慶の軍服を脱がせた。
「客が少しずつ忘れていった服が溜まってる。それに着替えて」
 元山市民の平均的な装いに身を包んだ相慶は、荷物の袋からサンドペーパーを取り出し、髪を擦っていく。
 髪はぼさぼさになり、しかし白く染まった部分は黒色を取り戻した。議長のアドバイス-単純に髪型を変えただけの変装が、最も官憲に見破られない-を信じるしかない。
「どうだ?」
「元山の男を十人混ぜて、十で割ったような見てくれだね」
 その答えに相慶は感心した。頭の回転は速そうだ。
「チャンスク、この部屋は隣からのあえぎ声は聞こえてくる?」
「この壁を見なよ。たぶんソウルにまで届いている」
 相慶は笑いながら、財布から十ドル札を取り出し、彼女に渡した。
「昨日言っていた裏道を教えてくれ。監視のガキどもを捲きたい。そしてこれから三十分ほど、真っ最中の声を出し続けてくれないか。嘘くさく聞こえぬよう、時には抑制もしてくれ」
 頷きながらチャンスクは床の板を剥がした。二メートルほどの穴がそこにあった。
「下水道よ。権力者どもの庇護を裏で受けてはいるけれど、奴らの意見や立場、メンバーがいつ変わるかは誰にも予測できないから。マッチかライターは?」
「ある」
「二十メートル間隔で膝の位置に矢印を彫ってある。その通りに進めば十分程度で元山駅に着く。午後三時頃に合流するわ」
 
 真っ暗な地下道では距離と方向の感覚は簡単に失われる。随分と歩いたような気がしたが、実際にはせいぜい数分、二百メートルほど進んだだけ、といったところだろう。
 それでもこの現代のカオスにおける二百メートルの移動は、アラスカにおける百キロに匹敵する距離感だった。下水の異臭には既にジャンマダンで慣れていた。
 相慶は荷物の中から身分証明用写真を取り出した。十五種類のサイズ別に、それぞれ八枚ずつ揃え、日本を出発する前、醤油を塗って脇に挟んで眠った。人間の汗は書類を古く見せる最も有効な液体の一つだ。
 それらの写真からサイズが適したものを選び出し、ライターの灯を頼りに慎重に貼っていく。写真の裏から針で一部を押し上げ、刻印の文字らしく見せるようにする。完璧ではないが次善策にはなる。
 ジャンマダンで老婆から買い求めた五冊の公民登録証は、名実ともに全て潜入工作員のものとなった。
 上向きの矢印の箇所に出てきた。
 見上げると地上に向かう穴と、錆びた把手が続いている。
 慎重に上り、蓋をゆっくり押し上げ、地上に出る。
 そこはかつて鎮守の森だったのか、切り株が無数にあった。木は一本残らず切り倒されている。腰ほどの高さにある草を掻き分けて進むと、視界が開けた。向こうからは草が遮断する形で、しかしこちらからは大きな通りが眺められた。
 金時計が示す時刻はちょうど午後一時になるところだった。相変わらず人通りは少ない。日中、二十八歳の男がぶらぶらと町を歩くのは目立ち過ぎるが、いつまでも草叢の中で待機するのも良策ではない。女が裏切れば、三十分後には白特務上士が下の穴から出てくるはずだ。
 相慶はひとまず通りの端に出て、左右を窺った。
 右手、五十メートルほど向こうに、更に太い大通りが走っている。
 その向こうに半円形の、いかにも共産主義国家好みの、要塞を連想させる三階建のコンクリート建築が見えた。空港の管制塔に似た、高さ二十メートル程度の塔を従えている。
 元山駅だろう。
 相慶は駅の方角へと進み始めた。通りの右手に並ぶ家屋は、お互いに寄り添うことで何とか崩壊を免れている。金日成が凱旋帰国を果たし、今もロシア、日本と対峙する軍港のある中核都市の、駅前一等地。居住を許されているのは出身成分の上位者たちだろうが、それでもこんなガラクタを資材とした家なのだった。
 やがて大通りに出た。アジアハイウェイ六号線。
 韓国の釜山に端を発し、日本海沿岸を北上、軍事境界線に接した江原道を経由、三十八度線を抜けると今度は北朝鮮側の江原道、高城郡を走り、ここ元山、そして引き続き日本海沿いに咸鏡南道の咸興市、更には羅津、先鋒経済特区を通り抜けロシアに至り、更には西に眠る巨人、中国を目指す幹線道路。
 勿論、他の多くのアジアハイウェイと同様、当該国間の良好な関係を前提とした、理念だけが先走った道でもある。三十八度線の存在を指摘するまでもなく、このハイウェイを通るトラックが物資を満載し釜山から元山へ抜け、ロシアまで走り続けるという図は絵に描いた餅に過ぎない。それでも北朝鮮にとって六号線は、外国資本の流入を当て込み、国の存続を賭けて開発を進めている北東部経済特区へと続く大動脈であり、国家にとっての命綱でもあった。
 中国語が車体にラッピングされた観光バスが、閑散としたハイウェイを通り過ぎた。道路の整備状況は明らかに他とは一線を画しており、緩やかなカーブを描いて堅く馴らされたアスファルトの端には側溝まであり、沿道にはポプラが植えられ、詩的な道路風景を演出している。中国人やロシア人の観光客の目がバスの車窓を通して常時光っているこの通りで、外面を何よりも重んずるこの国が、権力の手先を利用して民衆を虐めることはないはずだ。
 相慶は通りを渡った。予想通りここでは保衛部や安全部の連中は近づいてこなかった。
 駅前の広場は無人だった。北朝鮮東岸最大の都市にあるターミナル駅がこれでは、国内の物流手段はほとんど死に絶えているものと判断せざるを得ない、と思いながら駅構内に入る。
 風景が暗転した。

 そこには町中の住民をここ一点に掻き集めてきたかのような密度で、人々が集結していた。
 ジャンマダンとはまた違った混雑。前に進むことも難しかった。
 食料を求めて地方に出る者、食料を確保し戻る途上にある者、がとりとめなく交錯し、ただただ今日の命を永らえさせようとする人間模様が駅構内の隅々にまで満ちていて、その誰しもに共通しているのは、一切の感情を表に出さず、笑顔を見せない異様に日焼けした顔と、ジャンマダンで見かけた人民のそれと同じぐらい粗末な衣服、そして体臭だった。
 物乞いと泥棒が一人も存在しないはずのこの楽園で、破綻した計画経済の犠牲者の姿を同朋のロシア人や中国人に披露することは国家のメンツが許さないのだろう。彼らは駅舎構外で列車を待つことが許されていないのだった。

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