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「伊豆海村後日譚」(8)

 満海民主主義人民共和国の首都、ハスン市郊外に生まれたパク・チョルスは、そのおよそ百年前、現在の北朝鮮、咸鏡南道に住んでいた曾祖父が満州抗日パルチザンの一部隊を匿っていたという出自と、平均値よりは高い知能指数に恵まれ、高校卒業後苦も無く満海労働党の一員となり、同時に満海人民軍の正規兵としてハスン海軍に配属された。
 配属先で脱走兵を追いかけ躊躇なく殺害した彼は、その功績によって二十歳の時に入学が許されたパクスンヨプ政治軍事大学で日本語を学び、卒業後は祖国に背を向けた在外諜報員を「掃除」する専門家となった。
 逃亡者を追い詰め、その背に刃を突き立てる能力において、確かに際立った存在ではあったものの、パク・チョルスは最初から飛び抜けて総合点の高い軍人ではなかった。しかし彼を上回る知性と技量を持った同僚は、その知性と技量故に次々と粛清の対象とされていった。順送りで優秀な部隊のリーダーが消え、生き残った彼が結果的にはその世代のナンバーワンになっていた。そうなると次に断頭台の露と消えるのは彼の番となるのが筋であったが、それを救ったのがカネの力だった。資本主義社会主義の別なく共通する、普遍的原則。
 品川駅で凡庸な警官の鼻腔をくすぐった「体についた匂い」を理由に密殺セクションを抜け、ハスン港を拠点とする哨戒艇六隻を指揮する大尉となった彼は、操船技術と日本語能力を活かしフネで覚醒剤を日本海に運び、神戸を拠点とする日本の広域暴力団組織、山蛇組の二次団体、九巻組がその対価として差し出す当時はまだ価値のあった日本銀行券を国内に持ち帰る、国家公認の副業に精を出した。海上保安庁に尻尾を掴まれる愚は犯さず、手にした札束の一部を巧妙に自らの懐に入れ、一部を自分の指揮する部隊の連中に公平に配分し、残った全てを惜しみなくハスンの要人どもに捧げることで、チョルスは誰からも愛される兄貴分となり、三十半ばで少佐に任命されるという異例の出世を遂げた。
 祖国でデジャブのように繰り広げられた世襲とその反対勢力による激しい権力闘争は、もちろん密封され厳重に蓋を閉ざされていたにも関わらず人の世の常で、その内容が余すことなく国内の有力者の耳にまで漏れ、若き少佐は金で買った情報とそれを分析する優良以上最良未満の知能によって、自分の親方が近いうちに頭を失い、ただでさえ荒れ果てた国土が更に焦土化することを明確に予期していたものの、その「頭」が己の身の破滅に際しせめて千年来の宿敵を道連れにせん、とヒステリックに押したボタンが、結果として長年かけて溜め込んできた一億円近い札束を一夜にして紙屑と転じさせる事態までは予想していなかった。
 東京を無力化した「大将」は、その後六時間ほど、我が民族の誇り、と国営放送によって繰り返し喧伝されたが、国連軍の爆撃によって国営放送局自体が木端微塵に粉砕された後は、その消息も今もって不明となった。
 大量の難民発生を懸念し、生かさず殺さずの政策で満海国の現状維持を保ち続けていたロシア、中国、そして隣国北朝鮮にとって、それは最悪のシナリオだった。彼らは旧満州の凍土からやって来る生物は蟻の子一匹通さぬという決意をもって国境のゲートや港を封鎖し、佐渡島の半分ほどの面積に過ぎなかった満海国の領土は文字通り金網に囲まれた逃げ道のない格闘リングとなり、そこで展開された生き残りを賭けた人民闘争は世界中から黙殺された。
 満海民主主義人民共和国は一ヶ月で総人口の半分、十五万人余を失い、米露中による信託統治領となった。
 それでも動けるだけの体力とコネを持つ生き残りは、ある者は豆満江を渡河し、ある者は黄海の荒波を泳ぎ切り、ある者はツンドラの森林地帯を踏破し、周辺諸国に逃げおおせ、そこで長期間に及ぶ審査、尋問、思想教育を経て幸運な者は生活保護の受給を勝ち取ることができた。だが最初の一年間、日本に向かう者はアメリカ合衆国NSCによる事前のシミュレーションに反して数十人程度に留まった。放射能と毒物に汚染されてもはや生物の住環境に非ずという風評が、その理由だった。もっともその翌年以降は、結局のところ何処に住もうとも、度重なる洪水によって剥き出しとなった粘土状の土壌の他には禿山と湿地と腐敗した玉葱の残骸が横たわるばかりのあの狭い故郷に比べれば遥かにマシ、という今更ながらの観念と、不法入国があまりに容易という我が国の沿岸警備事情に関する事実に基づく噂の伝播が、続々と海の向こうからの流浪者を呼び寄せることとなる。
 パク・チョルスは、最初の数十人の中の一人だった。彼は自らの元に集結してきた四十一名の部下を率いてハスン港に停泊していた哨戒艦艇をいち早く出航させ、日本海沖二百海里地点でほぼ燃料切れとなった船のメインエンジンを停止させると、弟で同じく満海人民軍に所属し機関長だったパク・ジョンヒョンおよび腹心二名であるハン・ガンスとチェ・ヨンナム、そして覚醒剤原料を載せたボートを下ろして暴力団側が用意した漁船に乗り換え、その他三十八名の乗組員に一瞥もくれることなく日本に向かった。寒風吹きすさぶ日本海を漂う鉄の塊に置き去りにされた三十八の命運など、元少佐には知ったことではなかった。
 パク・チョルスの日本語はもともと完璧に近い出来だったが、五年に渡る日本滞在の間に関西弁までマスターし、本省人を名乗ってもます疑われることのないレベルにまで達していた。彼ほどではないにせよ、パク・ジョンヒョン、ハン・ガンス、そしてチェ・ヨンナムも日本語での日常会話は苦も無く交わせるようになっており、満海人民軍時代からこの国での生活様式については充分に学習していたこともあって、日本の一市民を演じることには何の問題もなかった。「混乱の五年」の間に四千万人近い死亡者と一千万人にのぼる行方不明者を出し、あらゆる公的機関のデータが破壊されたこの国で、死亡届が出されていた誰かの戸籍を買い取り、生存証明を申請しその誰かに成りすますのは、ニキビを潰すより容易なことだった。彼らは日本国籍を難なく手に入れ、それぞれ間宮兄弟、林、吉田に生まれ変わった。
 そして今、四人とその世話人の役を果たしていた九巻組構成員の新井は、沼津港を目指して東名高速を走っている。
 彼らの目的は、大量の中古自転車を積載した船を旧満海民政化信託統治領ハスン港まで操縦し、その足で現地にて武器と女の供給元を開拓し、場合によっては「現物サンプル」を買い付けて戻ってくる、というものだった。
 
 ガソリンの個人消費に制限がかけられた世相にあって、原油の精製過程で抽出される粗悪な油、いわゆるB重油やC重油でも動かすことのできる船は、国内自動車産業の衰退と反比例するように、『混乱の五年』期間、その需要を高めていた。オーナーを失い打ち捨てられた無数の漁船の船底から燃料を抜き取る専門家集団が各地で跋扈し、新油もガソリンや軽油ほど小売価格が上昇しなかったこともあり、船舶用の重油は枯渇の危機から何とか免れていた。稼動を続けることができた漁業従事者の一部は、船から魚群探知機や巻き網機を取っ払い、そこに帆を掛け更なる低燃費化を図ったうえモグリの水上タクシー業者となった。交通手段を失った山間部の住民は続々と下界へと降り港町に集まった。強制力を用いることなく、全国的にコンパクトシティ化の潮流が現実のものとして興り始めた。
 有名無実な存在へと墜ちていた車検制度と同様に、船舶の定期検査もこの五年、行われることはなかった。本来貨物船や漁船は五年毎の定期検査およびその間の中間検査を受ける義務が、客船は毎年法定検査を受ける義務があったが、自動車のそれとは二桁も三桁も違う船の検査費用を負担できる船主は皆無で、運輸局も実情を黙認せざるを得なかった。
 塩水に常時漬かり、外板塗装もせず、エンジン冷却のための海水を引き上げるパイプも取り替えられることのない鋼製の船が、やがて海の藻屑となるのは自然の摂理であり、海難事故は毎月のように発生したが、それがトップニュースで扱われることはなかった。替えの船はどこにでも転がっていたし、核弾頭とリシンによって二日で一千万人余の人命を失い、その後も毎年数百万単位で人口減少が続くこの国で、百人程度の乗客が海に沈んだところで、それがどうしたという反応以外に喚起されるものなど何もなかった。
 それでも良心ある例外的な船主は自主的に船舶の定期メンテナンスを行い、それが住民自身が「ケツの穴のような」と称する伊豆海村草履地区のような隔絶された、しかし船舶修繕工場を持つ集落が未だ存在する理由となっていた。
 千五百トン程度の貨物船なら自在に操ることができるパク一味は来日直後の一定期間、韓国や北朝鮮を相手にした非合法取引に従事してきた。その後彼らの商いは大きく変化していくが、ここへきて久しぶりに静岡県、沼津港を出るフネの仕事が舞い込んできたのだった。
 業務内容について初めて聞かされた前日の夕方、五年ぶりに故郷の土を踏めるとむせび泣いたハン・ガンスに、おまえもあの満海人民軍の端くれだったのならばそうした感情は今後一切言動に顕すなとパク・チョルスは一喝し、その脛を蹴りつけた。部下はそれを忠実に守り、いつものように無表情で翌朝を迎え、そして今、体中の毛穴が広がるような興奮を呑み込むようにして、百年前から既に殺風景だった東名高速道路の車窓を眺めている。

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