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ラトビアと日本は友好100周年を迎えました

Good  Job、日本!
1918年、独立宣言をしたラトビアは1921年1月26日に世界5か国から法律的な国家としての承認を受けました。このとき、フランス、イタリア、イギリス、ベルギーとともにラトビアの独立を承認したのが日本なのです。Good job、日本!

下の写真は1921年3月1日、日本で閣議決定された際の資料で、ラトヴィアのほか、エストニア、ジョルジアも承認の記載があります。
出典 : 2021年6月4日、駐日ラトビア共和国大使館 twitter/外務省外交資料館

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同時期に独立承認を受けたほかの2か国

この資料にあるエストニアは、ラトビアの北に位置するバルト3国の1つ。そしてジョルジアは、現在、ジョージアと呼ばれているコーカサス地方の国です。ワイン発祥の国といわれ、クヴェヴリと呼ばれる素焼きの壺を用いた伝統的なワイン作りは、ユネスコ無形文化遺産にも登録されています。

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クヴェヴリの壺。駐日ジョージア大使館にて。

2020年、『ニットマルシェ』vol.25(日本ヴォーグ社)で、ジョージアの民族衣装と編み物の記事を書かせていただいたことがあるのですが、そのとき、ジョージアについて調べた資料のなかに「あの名曲」の話がありました。

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ジョージアと「百万本のバラ」

そう、それが加藤登紀子さんが歌う「百万本のバラ」です。原曲はラトビアの『Dāvāja Māriņa(ダーヴァーヤ マーリニャ)』(マーラが与えた人生)。でも、日本語版の「百万本のバラ」は、この曲がラトビアからロシアに伝わったとき、ロシアの詩人によって「女優に恋をした画家の話」として書き換えられた歌詞なのです。そしてこの主人公になったのが、ニコ・ピロスマニというジョージア出身の画家だったのだそう。なんだか不思議な繋がりだと思いませんか?

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では、原曲「マーラが与えた人生」とは?

実はラトビアの原曲というのは、甘くせつない大人の恋の歌詞ではないのです。
タイトルにもなっている「マーラ」は、ラトビアで女性と子どもを守護する女神を示します。原曲はラトビアの音楽家ライモンズ・パウルスが作り、歌詞は詩人レオン・ブリディス、そして歌手のアイヤ・ククレと少女リーガ・クレイツベルガの歌声によって広く知られるようになりました。

時は独立宣言から再びソ連に併合された旧ソ連時代。この歌は他国支配の続いたラトビアで運命に翻弄される人々の苦難を表す歌として、皆の心を揺さぶりました。
その歌詞の一節がこちら。

”マーラは娘に生を与えたけれど幸せはあげ忘れた”

深い、、、。
娘は国民のことであり、ラトビアという国そのものだったのかもしれません。

その後、1990年にラトビアは独立回復を宣言。日本は1991年に改めてラトビアを国家として承認します。


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そんな長い歴史を築いてきたラトビアと日本。
祝・友好100周年。
今後もさらなる発展を!

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ラトビアの女性ヴォーカルグループ・Tautumeitas(タウトゥメイタス)のライブパフォーマンス。ラトビア日本友好100周年記念事業「EXPANDING LIGHTS ~クリスマスツリー発祥の地、ラトビアからの贈りもの~」にて。2012.12.12.

ラトビア日本友好100周年記念事業
Expanding Lights@六本木ヒルズカフェ(12月7日〜19日まで開催)

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