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熱海

この世で最も美しいものは何か。読者はこれについて考察されたことはあるかと思う。黙っていても様々な情景が浮かぶ。火山。雪山。水色に輝く海。夜空に走る雷。戦争。火事。津波。暴力沙汰。墜落する飛行機。崩落するビル。首を括った独裁者の映像。眼球の捉え得るあらゆる美しいもの。私はそれら全てにいちいち「ごもっとも」と肯首する。美しいものに不足はない。ほぼあらゆるものが美しい。それは真理のひとつでさえある。教義と言い換えてもいい。人は美を尊ぶ。醜いものは、ない。なぜならば人間のフィルターを通せば醜いなりに全てが美しいということになるからだ。だとしたら、である。人間は自分自身の外側は全て美しいと認識してしまうというのであれば、己の外部には醜いものは存在できないのか。できないのである。自動的に人間は自分の外部には美しさしか見い出すことができない。言い直せば、醜いものは徹底的に内部にのみ存在するのである。人はあらゆる美しいものを愛する。そしてあらゆる醜いものを憎む。而して醜いものとは自分自身の内部全般である。人間の心象風景は、どれも耐えがたいくらいにおぞましい。我々の内部に癒着した醜怪なる内声は絶えず我々を醜悪へと駆り立て導く。毒物や病気や危険に対する生存戦略として我々は最低で最悪な想像を繰り返し、来るべき厄災に備えてきた。この世で最も美しいものはわからない。ただ最も醜いものはわかる。鏡を覗けばその答えに辿り着くだろう。

ひとしきりお楽しみに耽ってからそれが「済む」と、私は陰茎に被さったコンドームを器用にとって中に射精した精液が漏れでないように注意を払いながらティッシュペーパーに包んでゴミ箱に捨てる。大抵のお相手はゴミ箱送りになる前の私の精液の「量」を確認する。そしてお楽しみの成果、愛の世界の結晶を観測し科学的な分析と文学的な感傷を味わうのである。性交渉とはまさに総合芸術と呼んでいい人間の一大事業である。それから裸で抱き合って睦み合うのもいいし、あくまでもドライにシャワーを浴びに浴室へ向かってもいい。私はお相手がシャワーを浴びる間、使用済みのコンドームの内部に思いを馳せる。射精された後のコンドームは哀愁と化学が結婚した様な美しい見てくれをしている。しかしあの中の液体は私の延長線上の存在であるのか、それともあれは肉体から離れたから私ではない「何か」なのか。そんな事を考えていると先程激しく愛し合ったお相手がまた難しい事を考えていますね、と浴室から出てきて笑いながら話しかけてくる。私はお相手の美しい身体を鑑賞する。形の良い乳房。はねた陰毛。濡れた襟足。白いふくらはぎ。全てが美しい上に、完璧だった。私は口に出してあなたは美しいですね、と言う。お相手は私の股座に向かって顔を沈める。お相手は一心不乱になって、もうこんなに大きくなりましたね、綺麗でとってもたくましいです、と私の陰茎を咥えながら褒めてくれる。また欲しくなってしまいましたが、残念ですけど手持ちの避妊具は先程のもので終わってしまいました、とお相手が実に済まなそうに謝罪する。それから数分間あれやこれやと私の陰茎を慈しむことに専心した後でお相手はとうとう根負けし言うのだった。もうだめです。避妊具なしでさせていただきます。よろしいでしょうか。お相手は私の答えを待つことなく私に跨っている。それから切なそうに声を漏らしながら陰茎を己の性器の入り口に当てがってから腰を落とし深くまで飲み込んでいくのだった。

かつて私は入水自殺を試みたことがあった。理由は何か。他人に説明する時に絶望したからだ、と答える。何に絶望したのか、とお相手は尋問する。君は何に絶望したのか。何に絶望したのかを説明するのは難しい。私の外部の世界はこんなにも美しいのに比べて私の内部の世界がどこまでも醜いという事実に耐えられなくなったからだ。親友の裏切り行為や失恋などは単なるトリガーに過ぎない。私の内と私の外は常に闘っていて、とうとうその不毛な膠着状態のバランスを崩し気づけば深酒をして夜の海に入り平泳ぎでだいぶ沖の方まで泳いでいたのだった。私は海の中から振り返って遠くの方で輝いている熱海の街を目にした。けばけばしいネオンが胸を刺すように感ぜられた。そして波ひとつない黒い海と自分の内部とが溶けていくような気分になりそれは徐々に海と街が一体化するように思った。私は自分の内部に黒い海と輝く街を感じた。それから私は一心不乱になって浜辺に向かって泳いだのだった。私は水泳の名手であると同時に内省の名手であった。私は私の醜さと和解し休戦協定を結ぶことにした。爾来私は自死を夢見ることはなくなり、同時に私自身の内部を醜いと思うこともなくなった。私の内部は今も黒い海と輝く温泉街に飲み込まれたままなのである。

私は乱れて燃え上がるお相手の膣の中で果てた。お相手は息も絶え絶えに嬉しいと言ってしばらく抱きついて離れようとしない。避妊具をつけないままで性交渉した場合、例え寸前で抜いて外に射精したところで同じようなものだ。お相手は、ああ孕石さんが私の内部(なか)に入って来ています、と言う。どうやら私の黒い海と熱海の街が彼女に注ぎ込まれているらしい。奥様ともされない事をわたくしとしてくださったのね、とお相手は口に出して言う。私はお相手の内部でとぐろを巻いている葛藤や愛欲や自己実現や挫折や果てしのない愚かさを想った。私は彼女を愛しいと感じる。まるで振り返った時に眺めた熱海の街に似た儚さを私はお相手の内部に認めたのであった。明くる朝、私はお相手の娘さんとまた避妊具もなしにまぐわった。今度は膣内ではなく大きく開いて待っていた口腔内に陰茎を入れて全ての精液をお相手の舌上に向かって射精する。精液は全てお相手の令嬢の胃に落ちていった。彼女の一人暮らしの自宅の寝具のシーツは信じられないくらい濡れていてまるで夜の熱海の海からあがってきた土左衛門が横たわったようだった。彼女はそのままシーツを洗濯機に放り込み、急いで化粧をして出かける準備を始める。私はズボンを穿いてから髪を整える。わたくし、悔しいくらいあなたのことが愛おしくてたまらないのですわと手を繋ぎながら地下鉄の駅に向かう途中でお相手は告白するのだった。それから生理は明日にでも来ますから中でお出しになったことなんか気になさらないでねと指を絡ませて言った(全く気にしてなかった)。いつかあなたを奥様から奪ってみせます、といったようなドラマティックな夢想に励んでいる燃えるような瞳をお相手はしている。私は彼女の口に接吻をしてから彼女の行き先とは反対側の電車に乗った。彼女はいつまでも執念の塊のように手を振っていた。私は3回の射精を想った。1回目はコンドームに放たれた。2回目は膣内に。3回目はお相手の口内を経て胃に注がれた。私の中で渦を巻く黒い海は私に醜い夢想を禁じる。私はどこまでも私であることから泳いで逃げる必要がなかった。その事実がどれほど素晴らしいことなのかを未だ憎しみや愛に支配されている彼女に伝えることは難しい。私のけばけばしくも儚い熱海の街はゴミ箱や彼女の胃や膣内の暗がりの内部(なか)を今も轟々と輝いているのであった。

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