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今夜も推しへの好きを拗らせて、泣きながらnoteを書く。


2022/02/25(本日)放送されたRIDE ON TIME Season4 #SixTONES エピソード4 Six を受け、取り急ぎ書きなぐるnoteです。本当に走り書きな感情メモなので、加筆修正または削除予定。以上の点を踏まえた上で読んでくださる方は、どうぞ個人的拗らせ感情の吐露として捉えて頂けましたら幸いです。



北斗さんが、わらった。
私の目からは大粒の涙、というよりもはや流水がとめどなく溢れ出した。

知り得ない“はずだった”笑い方、話し方だ、と思ったのだ。
それを享受してしまった自分がゆるせなくなり、
あぁ、ごめんね、ありがとう。と、矛盾した感情に苛まれて涙があふれた。

“届かない” “触れられない”という絶対的な前提を踏まえた上で同一視であったり共感的な好意を彼へ寄せる人間にとっては絶望的な瞬間であったように思う。私は確かに、ごく実像めいた彼のその笑い方へ、実像の虚像をみた。

それでも彼が選んだ道は、たったひとつ。
だから、それを受け止め、解釈し、定義してゆくことでしか、私はこの好きを好きとして型どることができない。

その愛すべき事実が、いまはとっても悲しいのだ。

その笑い方も話し方もおもいで話も、すべてはあなたのために、あなたのためだけに存在しているものであって。
こうやって拗らせたおたくに『あなたのためだけに存在している』なんて解釈されてよいものでもなくて。

きっと大切であったかくてやわくて、心の内側で、頭の奥底のぼんやり煌めいた場所でずっと大切にしてゆける、そういう類だと思うのだ。

それが、こうして瞬く間に昇華されてゆく。エンタメになってゆく、それを私は享受する。それが推すということなのだろうか、ならば私のこの好きはやっぱり罪悪の意を孕むのだ。

与えてもらってばかりいる。受け取ってばかりいる。だからといって何かを返そうとは思わない。絶対に、返すことなど不可能だからだ。

『推し、燃ゆ』を読んで抱いたものを吐露したブログにも書き記したが、これは果てしない一方通行の行合であってキャッチボールが成立する関係ではない。ただ、投げ続けるだけ。どうかしあわせが降り注ぐようにと、祈りを投げつけるだけ。

だけれど彼は、彼にとってのしあわせを独り占めせずに、私たちへ投げかけてくれる。それが彼の選んだボール、意図した投げ方、そして届いてほしかった軌道を描いたのかさえ知り得ない。だけれど彼は投げる、投げ続ける。

あったかくておいしくて堪らないものは、どんなに他者から強請られようとひとりで堪能し尽くすに限るのに、だ。

だから、享受してしまったことに涙が出た。だけれど何も否定したくはなかった。そして自分の中で渦まいたこのぐちゃぐちゃに整理をつけるため、今こうして言葉を並べ立てている。

大切なものをみせてくれてありがとう、と言える自分でいたい。ごめんなさい、などと思ったところで、言ったところで、それこそ無責任な押しつけなのだ。だから、『ありがとう、好き。』その二言しか、今の私にはいらない。

彼が今日も生きている、私の知らないところで、私の知らない誰かと、知り得ない笑い方をする、話す。その事実を愛せる自分でいたいばかりの自戒。


この重苦しくてこんがらがった好きも涙も誰にも押し付けたくはありません。負わせるつもりはありません。だけれど、だからこそ、こうして独りごちる夜がしばしばあってしまうことからは逃れられない。こんなことを言いながら人目に触れるところへ言葉を落としてしまうのは私の性です、ごめんね。

彼の大切なものが、どうか彼にとってきらきらと煌めく、あたたかい、かけがえのないものとしてずっと護られてゆきますように。彼が、それを抱きしめて歩んでゆけますように。

北斗さんが見つめる方角なら、それはどこを向いていても前です。そう、心の底から信じる自分で彼を好きだと言いたい。

今日も私は松村北斗が好きで、苦しくてせつなくて、あぁ本当に幸せだ、と泣きました。

こんなにも人は人を好きになれる、
たとえ何も知り得なくても。

すごく尊くて、しあわせです。あなたは今、幸せですか。そうであるならば、それがどんな形でも、うれしい。


北斗さんに、幸あれ。


都合の良い私の解釈
2022/02/26

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