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「親を切る」のが「優しさ」という日本語の不思議な理由と「恥の文化」

日本語で人に対して優しいをこと「親切」と言いますが、親を切るなんて、なんだか、非常というか、倫理観のなさというか、本来使われるニュアンスとは違う感じがすると思いませんか?

この場合、「親」は「おや」ではなく「したしい」という意味で解釈します。そして「切」という漢字は別の漢字の下につけることにより「非常に○○である」といった意味を持ちます。

「親切」は非常に親しいことであるという意味になります。他にも「懇切」や「哀切」
「適切」『痛切』などがこの用い方をされた単語として使われていますよね!

ぼくは、「信号は青ですよ」という運動を通じて、日本人は自分も含めてなのですが、困っている人に対して、直接的に声をかけたり、手を差しのべたりといった「親切」を表現することがとても苦手な国民だと感じているのです。

しかし、決して日本人が薄情なわけではありません。むしろ個人主義がベースとなる西欧諸国と比べ、慈悲深い民族だと信じています。

では、なぜ「親切」を表現するのが下手なのかを考えてみると、そこには日本独自の「恥の文化」というものが関係しいるのではないでしょか。

日本社会では古くから、社会の目にさらされること、特に負の意味で注目されることを「恥」として避けられるべきこととされています。

このため、自ら「恥」と感じることはもちろんですが、他人の「恥」と解釈できることも、直接的に介入することで、その人の面目を潰さないように配慮し、困っている人がいても積極的に介入しないのじゃないかな・・・一種の思いやりなのかもしれませんね。

現代では、昔のような村社会ではなくなりましたが、元来、恥を恐れることで、村の社会的な適応を保つ手段であると考えられていました。

今でも、家庭や学校の教育において、「恥ずかしい行為」を避けるよう指導することで、そうした生き方が、社会的に望ましいという教育風土は根強く残っています。

“お前だけには、恥ずかしい思いはさせたくない”
“親に恥ずかしい思いをさせるな”

こんなことを思ったり、言ったことは、あなたにはないでしょうか?

でも、その恥の概念というものは人によって様々なものなので、そこに固執したり、そのために苦しむことは本当は不毛なことなのだと思うのです。

日本の文化では、そういった場合、人の面目を潰さないように(この人というのは、困っている人に対しても、その村で自分一人が手を差し伸べることで面目が立たなくなる他の人に対してもですが)間接的に援助をしたり、祈ったりといった優しさを持っているのです。

これは、西欧の困っている人には直接的に声をかけ、手を差し伸べることが個人的な社会的責任であるとする考え方との違いです。

宗教的な概念や、民族の違いなどがあるので、一括りにどちらが良いかなど語るつもりはありません。

だけど、グローバル化する社会の中で、村の概念を持ち続けることは、非常に息苦しい生き方となってきています。

分け隔てなく非常に親しい、親切という言葉を大切にしたいですね。

因みに、「大切」の「切」は差し迫るという意味を持っており、「大いに差し迫った緊急なこと」
つまり、大事なことから成り立っています。

日本語って面白いですね!


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