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一週遅れの映画評:『HUMAN LOST 人間失格』そんな僕にサヨナラさ Transformation

 なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『HUMAN LOST 人間失格』です。

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 ストーリー自体は特に驚くところは無い、というか「別段、太宰の『人間失格』でなくても良かったんじゃね?」って部分が一番びっくりすると言うか。
 富裕層と貧困層で居住地区が分断された社会で、貧困層に住む内向的でネガティブな青年が見るからに怪しいおっさんに誘われるままテロに加担するが、ひょんなことから富裕層のそれも政治的中枢に近いけども社会を分断する思想に染まっていない若くてカワイイ女と出会い、おっさんの提示する「現実を見ろ」系破滅的ビジョンと女の提示する「私は願ってます」系多幸的ビジョンのどっちに付くか決めろ、そして戦え!
 というまぁほんとよく見るなコレ、といった感じで「そうだよなぁ、くたびれたおっさんの言う全部ブッ壊してやり直そうぜ!よりも可愛くてピュアな若い女のみんな幸せな明るい未来に加担するよなぁ」、というあんまし性差とかルッキズムとかの踏み込みたくない領域に考えが向いてしまうくらいには、お話として特筆すべきところがない。
 
 強いて言うなら「信頼」の問題。あなたは他者を「どこまで」信じられますか?それは不可抗力の裏切りが起こったあとでも「信じる」と言えますか?という部分と、「心中をしようとしたのに、自分だけが生き残ってしまった」というやるせなさの出し方は、確かに太宰の『人間失格』ではあった(とはいえそれは『人間失格』というタイトルがついてるからそう感じるだけで、別にそれが念頭になくても十分エピソードとして通用するのだが)。
 
 加えて、最終的に「自分だけが生き残ってしまった」という思いから主人公の義務となった「愛したものの因子を抱えた存在を殺し続ける」という行為と、それと戦うためには毎回「自殺→暴走→変身/再生」というプロセスが必要となることから、「人生をやり直すたびに愛するものを殺し続ける」という状況が「恥の多い生涯を送ってきました」という言葉で、何度も再起する生涯と繰り返される恥に帰結するのは、ちょっとグッときた……じゃあ『人間失格』でいいのか、やっぱり。
 
 ただまぁ、全体としては退屈……なんだけど一本の補助線がはいることで、私にとってはめちゃくちゃ楽しい作品になった。
 というのも戦闘シーン、基本的にハデでスピーディなんだけども、時々「んん?」となるような鈍さや「もっさり」した感じが強く出てくる。それになんか既視感があったのだけど、その理由に気づいたら急に面白くなった。
 
 「あ、これウルトラマン、それもゼロ年代以降のウルトラマンだわ」
 
 ウルトラマンはかっこいい殺陣やCGも使った派手な演出がありつつも、その「巨大」感を出すためにあえて鈍かったり「もっさり」した感じを出していて、それは表面的なところではカッコ悪いのだけどその鈍さもっさりさから伝わる「巨大」なことと、そういったカッコ悪いものに翻弄される「小さな私たち」という視点が入ることで、それはむしろウルトラマンに「神々しさ」を与えている、と私は思っている。『HUMAN LOST 人間失格』の殺陣からは、それを意図的に狙っているように感じた。
 人間を失格/合格にふるい分けようとする傲慢さを打ち砕くのは、その矮小な考えをひねりつぶす「神」としての人間失格者であり、それは怪物のような姿に変身することで社会の「不安」を一身に集める主人公が、それでもなお明るい未来を「信じて」いるという願いなのだと。
 
 そういった点もまさにウルトラマン的であり、本作では変身する敵も味方も「不気味なもの」「不穏なもの」として描かれることから、ウルトラマンのなかでも特に暗澹とした空気を持つ『ウルトラマンネクサス』( Amazon Video https://amzn.to/2rW0ZZV )の空気と非常に良く似ている。
 つまり『HUMAN LOST 人間失格』『ウルトラマンネクサス』の再翻訳だ!と途中で気づいてからは、すごく楽しくなった。
 
 失格になる人間("HU"MAN)がその格を失うからこそ
 解放された超人("ULTRA"MAN)に生まれ変わる、というアングルはとてもかっこいい。

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 この話をしたツイキャスはこちらの18分過ぎぐらいからです。


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